姫野カオルコ 初体験物語 目 次 アイ・プチ アイシャドー 石井さん 行った外国 ウェッブ先生 映 画 SMT 援助交際 大竹しのぶ お札戦争 訪れた土地 オールナイト オロナミンCドリンク ガーター・ベルト カップ・ヌードル 彼から手紙をもらった キ ス㈰ キ ス㈪ クラス 芸能人 ゲイ・バー 声 ゴキブリホイホイ㈰ ゴキブリホイホイ㈪ 古典 コンビニエンス・ストア 幸せと健康 ジーパン㈰ ジーパン㈪ ジーパン㈫ ジーパン㈬ 下着買い取り業 シックス・ナイン 知っている人が殺された 自分の本 就職試験 女子プロレス スーパーマーケット スウェーデン㈰ スウェーデン㈪ スウェーデン㈫ スウェーデン㈬ スウェーデン㈭ スウェーデン㈮ スウェーデン㈯ スウェーデン㉀ スウェーデン㈷ セックス 007映画 そんなこと聞くよ 男性ストリップ・ショー 乳房クリーム 通天閣 掴 む デヴィ夫人 D社のS テーブル・ストリップ㈰ テーブル・ストリップ㈪ 東 京 東京タワー㈰ 東京タワー㈪ 東京タワー㈫ 東京タワー㈬ 東京タワー㈭ トリップ 70年代ファッション ナムコ・ワンダーエッグ 人 相 ネーデルランド㈰ ネーデルランド㈪ ネーデルランド㈫ ネーデルランド㈬ ネーデルランド㈭ ネーデルランド㈮ のぞみ パソコン ハンバーグ・ライス ピ ザ ビンゴ㈰ ビンゴ㈪ ファンデーション 複 乳 ブルセラ ベジタリアン ベスト・ジーニスト賞 部 屋 ヘンタイ電話 ボウリング㈰ ボウリング㈪ ボクシング 星一徹 眉形定規 マドンナ 南伸坊さん 無言電話 名 刺 もう一度スウェーデンに㈰ もう一度スウェーデンに㈪ (マイライフ・アズ・ア・ドッグ) もう一度スウェーデンに㈫ もう一度スウェーデンに㈬ もう一度スウェーデンに㈭ もっとイイやり方 安田成美 U V 冷房機 劇に出た≪ロール・プレイ≫ ワープロ 文庫版あとがき アイ・プチ  はじめてアイ・プチを使用したのは最近である。アイ・プチというのは登録商標のはずであるが、どのメーカーの化学調味料もかつては、すべて味の素と呼んでしまっていたように、アイ・プチのたぐいはみなアイ・プチだ。  では、アイ・プチとはなにか。男性のあいだで疑問が生じるであろう。説明しよう。一重まぶたの人がまぶたに貼《は》って二重に見せかけたり、二重のスジのくせをつけるために使用する接着テープのことである。七〇年代アイドルの写真をようく見ると、アイ・プチがライトに反射してしまっているものが、ときどきあった。例・大場久美子。このアイ・プチをなぜ使っているかというと、私の顔を見たことのない人は、 「一重まぶたを二重にしたいのだな」  と、思うことだろう。ちがうのだ。私は二重である。くっきり。にもかかわらずアイ・プチを貼っているのは、ああ、綴《つづ》るのも辛いが、年をとったためか、なんと近年、三重になってきたのである。そうだ。もう一本、スジというかシワというかが、まぶたに発生してしまったのだ。そのスジが元々の二重のスジと平行して走っているならともかく、平行していない。そのために顔つきが、陰険で貧乏くさくなる。 「これでは性格がまぶたに出ている。まぶたから性格を見破られてしまう」  ということで、アイ・プチを二本のスジのまんなかに貼ってみたところ、これがつごうがよい。二本はなぜか合体して新たなスジが一本走るのだ。  ところが、このアイ・プチ、二十スジほどのワンセットで六百円くらいする。〈まぶたにやさしいうるおい成分配合〉などと表記してあるが、陰険な私は信じない。 「なによ、こんなもん。どうせセロハンテープと同じ材料のくせに」  と思い、セロハンテープを鋏《はさみ》で細く切って貼ってやったら、これがつごうが悪い。同じ形に切れないし、切っているうちにテープの接着力が弱くなるせいか、ズレてきて、あろうことか四重まぶたになる。 「いっそ整形したほうがめんどうがなくてよいかも」  という案も脳裏をかすめたが、三重を二重にする手術というのはあるのだろうか? それに三重を二重にしたのに、 「あの人、整形したのよ。二重まぶたに。いやあねえ。ヒソヒソ」  などと陰口を叩《たた》かれるのも癪《しやく》にさわる。  そこで、ある日、ビデオの整理をしていてひらめいたグッド・アイデア! ビデオラベルに用いるシールの中に、細い小さなやつがたくさんある。これならアイ・プチとほぼ同様のサイズで、しかも全部均一である。試みたところ、抜群につごうがよい。  かくして最近の私のまぶたには「標準モード」とか「STEREO」とか「保存版」とか鮮やかに表示されている。ただ、貼っているのを忘れて外出すると、過去の大場久美子のようにまぶたに注目を浴びるが。 アイシャドー  はじめてアイシャドーを使ったのは高校を卒業した年である。カネボウのものだ。 「あっ、じゃ、あれでもらったのね」  と、思いつく女性も多いだろう。そう、「卒業のあれ」でもらったのである。  現在はどうなっているのか知らないが、一九八〇年くらいまで、カネボウ社では全国の高校(私立に関しては不明)の三年生女子に、アイシャドーとおしろいのコンパクトなセットキットを卒業プレゼントしてくれていたのである。キットをくれるだけでなく、基本的なお化粧の方法も美容部員が学校に来て指導してくれた。どうだ男子、驚いたか。そのときのアイシャドーを、男子も女子もともに驚くだろうが、私はいまだに持っている。だって減らないんだもん、化粧をしないから。 「ひょえーっ、ダメだよ、そんなものを使っちゃ。変質してるよ」  と震えながら友人は注意したが、使ったのはもらった当初だけで、今は使っていないので問題はない。  それにしても、なぜ大勢の女の子はあんなに化粧品を買うのだろう。どう考えてもファンデーションとかアイシャドーとか口紅とか、そうそう減るもんじゃないと思うのだが。卒業のときのカネボウのセットこそもう使っていないものの、五年前にマガジンハウス社の人から、雑誌の撮影の残りだというのでもらったメイクセットを、私は今でも使用している。クリームやファンデとちがい、アイシャドーや口紅は皮膚のちょこっとした部分にしか塗らないせいか、それともUV成分が入っていないせいか、それともマガジンハウスの撮影に用いるような商品だから「とてもいいもの」なせいか、それともメイクしたところで平均二時間内に落としてしまうせいなのか、たいした問題は生じない。まだまだ残量がある。これはもう一生、化粧品を買わなくてすむのではないだろうか。 「それはあなたが勤めに出ていないからよ。勤めに出ている女性はやっぱりお化粧をしないとならないから、アイシャドーも口紅も減るわ」  友人からこう抗議されて、あらためて勤めに出ている女性の苦労を知る。たいへんだよね、うん。お化粧をするのって本当にたいへんだと思う。とくに夏場なんかすごくたいへんそうだ。日焼け止めクリームを塗るのさえたいへんだ。 「でも、お化粧をするときには女のよろこびがないでもないわ」  こうも抗議されて、またしかりと思う。自分はしないくせに、ほかの女の子が化粧しているのが、私はとても好きだ。濃いほど好きだ。幼いころは自分の母にも濃い化粧を望んだものだが、ほとんど逆鱗《げきりん》にふれて却下された。母は昭和三十一年に買った口紅をいまだに使っている人間である。彼女は他人が化粧をしているのも嫌がる。ここは私とちがう。 石井さん  はじめて会った石井さんの、ある一言をきっかけに、私は彼にとてつもなく親愛の情を感じた。石井さんは日本屈指の文芸出版社の男性社員である。 「ご出身はどちらなんですか」 「大学では何を専攻なさったんですか」  などと、喫茶店の椅子《いす》にすわってしばらくは初対面らしくかしこまっていた。  が、なにかの拍子に彼の口から、 「クリスチナ・リンドベルイ」  という名前が出たのである。 「おお、石井さん、おまえもか!」  たちまちにして私は彼に対して「共犯者」めいた安心感をおぼえた。  クリスチナ・リンドベルイ。それは一九七〇年前半にポルノ映画界の妖精《ようせい》とうたわれた女優である。ちょうど薬師丸ひろ子を金髪にしたような童顔であり、小柄できゃしゃで、そしてバストが一〇〇センチ。本国スウェーデンでより日本で人気絶大であった……らしい。この、らしい、と推測にすぎないところが重要である。私は彼女の映画を一本も見たことがない。彼女に限らず、一九七〇年前半に私はポルノ映画など一本も見たことがない。なぜならそのころ私は十二、三歳。リンドベルイのことは、ただただ「スクリーン」の成人映面紹介のページで知っているだけだった。  もし高校生のときに読んでいたなら、そんなには強烈ではなかったと思う。大学生のときなら全然たいしたことなく、ましてや出版業界に入った後なら読みもしなかっただろう。思春期に読んだからこそ砂が水を吸うように、あのページは私の猥褻《わいせつ》性を養ってくれたのだ。今からすると、成人映画の紹介といってもさほど詳しい記述があるでなし、さほどキワどい写真があるでなし。なんてことないページなのだが、その|詳しくなささ《ヽヽヽヽヽヽ》が想像力を培い、劣情をはげしく刺激したのである。  石井さんは私と一つ違いの年齢。きっと彼もまた私と同じように刺激されていたにちがいない、いや、そうであって欲しい、そうであってこそ同世代、そうであってこそ健康、ね、そうだと言って。私はそう思い彼に親愛の情を感じたのだった。  ちなみに私の好みからするとリンドベルイは童顔なのがイヤだった。巨乳なのはイイんだが、形がフワ〜ンとしてるのがイヤだった。つまり私の劣情は刺激しないタイプ。サンドラ・ジュリアンも清楚《せいそ》な顔なのがイヤだった。均整のとれた肢体が、崩れがないぶん毒々しさがなくてこれもダメ。イザベル・サルリは顔が情熱的なのはイイんだが肢体が田舎くさくてパス。モニカ・ゲール、これはナカナカのもんであった。しかし、何といっても私の好みは高慢ちきな顔に高慢ちきな肢体、乳房は犀《さい》の角《つの》形。そう『恍惚《こうこつ》の七分間』のイーディ・ウィリアムスでしたね。題名で強烈な印象を残しているのは何といっても『WHY? 獣姦《じゆうかん》』。イヤラシそうというより語呂《ごろ》がへんだった。 行った外国  はじめて行った外国はロス郊外のノースリッジ。一九八〇年、私はこの夏、カリフォルニア州立大学の学生寮に寝泊まりしていた花の大学二年生。まだキスの経験がなかった(本筋とは関係ないが)。  寮の一室は十畳、八畳、八畳のDK、それにバス・トイレという広さ。窓から見えるカリフォルニアの青い空。黄金の太陽。「ハーイ」「ハブ ア ナイスデイ」などと、かわす会話もアメリカン、になるはずだったのだが、現実はエスプレッソだった。  ルームメイトがいた。私より三歳年上のエジプトとフランスのハーフの、ニューヨーク育ちの大学院生。名前はリン。身長は一六五センチで私と同じで、そのうえ、靴もブラジャーも互いにとりかえっこできたというくらいジャスト・セイム・サイズ。彼女はナスターシャ・キンスキーのような顔をしていた。二人で歩いていると、 「まあ、あなたたちよく似ているわ」  と、寮内の人から言われたものだ(さあ、この込み入った自慢を熟読しよう!)。  リンと私は一見、気が合いそうだった。しかし、大きな問題、それは彼女がユダヤ教だったことである。 「ヘイ ディナー イズ レディ」  リンに言われてキチンに行くと、直径四十センチほどの大皿に人参がゆでてある。小指大に切った人参が、ただ、ゆでてある。これがディナーなのである。 「ウィズ ノーソルト、ノーシュガー、ノードレッシング」  説明されずとも、見ればわかる。どこから見ても、ただのゆでた大量の人参である。 「レッツ イート」  リンはむしゃむしゃ食べるのだけれど、そして私も人参は好物なのだけれど、ちょっと待ってよ、人参だけでディナー? 「ミルクもあるわ。パンもどうぞ。ナチュラル・ハウス(のロス版)で買った自然食のパンよ」 「そう、ありがとう」  私はしばらくはリン式のディナーにあまんじていたが、さすがに耐えられなくなりスーパーでソーセージを買ってきた。ほんの少し、ソーセージを添えたら、もともと人参が好物の私、ディナーはぐっとおいしくなるだろうと思ったのだ。ところが、 「なによ、これはっ!」  リンは冷蔵庫のソーセージを見つけてヒステリックに叫んだ。そして、 「アイ ヘイト イット!」  私の買ってきたソーセージを、私の目の前でごみ箱にバンと投げ捨てた。  聞けば、ユダヤ教では動物性たんぱく質は一食につき一品しか許されないのだという。つまりミルクを飲んだらあとはもうアウトなんである。  一九八〇年、私は『日本人とユダヤ人』をまだ読んでいなかった。マクドナルドがとびきりのごちそうに思えた、あの夏。 ウェッブ先生  はじめまして、とウェッブ先生は私に言った。はじめまして、と私も答えた。このたび英会話学校に入学したのである。  考えてみれば私は幼少時をイギリス人宣教師宅で過ごしたのだから立派なバイリンギャルに育ってもよかっただろうに、宣教師は日本語ペラペラで私に接してくださったものだから、せっかくのチャンスをみすみす逃してしまった。思春期にはアメリカ人が家に下宿していたのだから、ふたたび立派なバイリンギャルに育ち直ってもよかっただろうに、大学卒業後、英語を使わないうちすっかり忘れてしまい、結果は「イングリッシュ ハ リトルビット」なフツーの日本人に育ちきった。  そのフツーの日本人は、ある日、ある編集者と喧嘩《けんか》をして、たいへん腹をたてながら道を歩いていた。そこで英会話学校のビラを渡され、衝動入学し、すぐにレッスンを受けたのである。 �アー ユー ファイン?�  ウェッブ先生に訊《き》かれ、 �NO�  私がきっぱり言うと、先生は、 �日本に来て二年になりますが、NOと言った日本人はあなたがはじめてです�  と笑い、なぜファインではないのかと訊く。むかむかしていた私は、喧嘩した編集者の悪口を一気にまくしたてた。出版社名も個人名も名指しで、微に入り細に入りまくしたてた。アンソニー・ウェッブ先生にしてみればとんだとばっちりだが、胸の内を洗いざらいまくしたてた私は、 「あー、スカッとした」  と、そのときこそファインになって帰った。ところが、二回目の授業に行くと私はちっともしゃべれない。そういえば初回、私はなんであんなに英語でまくしたてることができたのだろう? �へんですね、前回はとても英会話のできる人だと思ったのに……�  先生もふしぎそうにしている。私たちは理由を考えた。初回と二回目のちがい、それは私が怒っていないということだ。 �では、毎回、怒っていることについて話すことにしましょう�  ということになり、こうなると私と先生の個人レッスンは、レッスンというより、ほとんどカウンセリングと化してきた今日このごろ。テキサス州はダラスから来たウェッブ先生に、私はずいぶんなことまで打ち明けている。いくら「怒り」が英語力の素とはいえ、しょせんは「イングリッシュ ハ リトルビット」なわけだから、英語で話そうとすると、婉曲《えんきよく》な表現などできない。自分の気持ちのもっとも正直な部分をダイレクトに表現することになる。英語にしてはじめて自分の本音を知るというか。これがなんともストレス発散になるのである。合法的かつ建設的なストレス解消法かも。 映 画  はじめて映画をおごってもらった。  もちろん、子供のころは親ないし親戚《しんせき》に映画代を支払ってもらったし、現在でも何らかの機会あって試写会で映画を観ることもある。しかし、親族や試写会は「映画をおごってもらう」というニュアンスからいちじるしく外れている。 「映画をおごってもらう」ということは、あるていどの年齢に達した者が、プライベートで映画館に行って映画を観るにあたり、その代金を支払ってもらうということである。そして、この行為には暗黙のうちに限定があって、鑑賞同行者は二名、一人は男性でもう一人は女性。私は女性であるから、よって、私ははじめて! はじめて! はじめて! 男性に映画代を支払ってもらったのである。う、う、う、うれし〜い!  ああ、過去の日々を私はふりかえる。何度か男性と二人で映画を観た。何度か観たが、一度たりとも映画代を支払ってもらったことなどなかった。いつも切符売り場の前で、 「一万円札しかないや」 「じゃ、コーラでも買ってくずそう」 「待って待って、五百円玉ならある」  などと、国税庁褒賞ものの、十円単位まできれいなきれいな割りカンの明朗会計をしつづけてきたのである。  そう、私はきれいだった。女だからというだけの理由でおごってもらうなど、 「そんなことは媚《こ》びています。不潔です」  だと思う御清潔な人間だった。御清潔な人間とは何を意味するか。決して自己卑下することなく、ただ真理を言うのだけれど、それは、「女ではない」ということである。女ではなく中性なのだ。男性と二人で映画を観てごく自然に映画代を支払ってもらえる感覚を所持していてこそ、その人は「男から見て女に見える人」なのである。  自己卑下していない証拠に言わせてもらえば、私自身もたくさん知っているのである。趣味のぴったり合う御清潔な男性を。御清潔な、男には見えない人を。  中性対中性の交際は、たとえ生物学的には男女であろうとも、永遠に友情がはぐくまれる。麗《うるわ》しいとさえ呼ばれていい友情が。  しかし、井上陽水の歌にもあるように、「かぎりないもの、それは欲望」であるからして、私は麗しい友情のほかに恋愛も欲しかった。映画代を支払ってくれた男性は私の目には男に映った。ということは、彼は御不潔な人ということになる。そして払ってもらって喜んでいるのだから、私も御不潔になれたのである。不潔になることの、このなんという快楽! めくるめく悦楽! 原稿にこんなにも「!」を多用する悦楽! こんな悦楽をこの年齢になるまで放置しておいたとは! 「あなたは分別がおありになるのか、さもなければ恋をしたことがないか、そのどちらかでしょう」 『トロイラスとクレシダ』三幕二場。シェークスピア様のおっしゃるとおり〜。 SMT  はじめてSMTという用語を知った。訳すと「学校適性審査」なのだそうである。おそらくたいていの人が小・中学校時代にこれを受けているだろう。  ある日、担任の先生が生徒に紙を配る。紙には「クラスで一番好きな友だちはだれですか」とか「一番嫌いな人の名前を書きなさい」とか「よくいっしょに遊ぶ人はだれですか」とかいった質問が書いてある。あれがSMTである。 「あれは……じつに……」  過去の重苦しい記憶がよみがえる。小学校の教室。二人掛けの木の机。配られたわらばんし。質問文の下で静止しつづける2B鉛筆。「一番好きな人はだれですか」「一番嫌いな人はだれですか」。こんな質問を受けて苦しまないでいられるだろうか? 「だれにも見せませんから」  先生は言うが、だれに見られずとも、自分がクラスで「一番」好きな人はだれかと、友だちに「順位」をつけねばならない。そんな行為が苦しいのである。ましてや、その答えは「だれにも見せない」どころか、ぜったいに先生は見るのである。  小学生は赤ん坊ではない。小学校の五年生ともなれば個性は確立している。この審査を受けて苦しまないような児童は、まずいないと思う(苦しんでいると他人に表現できるか否か、苦しんでいると自覚できるか否か、の差はあろうとも)。  審査中、教室内はすこしざわざわとし、みんな苦しかったのだろう、結局、 「なあ、だれと書いとこ?」 「そやなあ、うち、同じ町内やさかい〇〇さんて書くさかい、あんたは××さんにしといたら?」 「そやったらうちは△△さんにしとく」  みたいに「談合」で「カドが立たぬように」収拾させた。  だが、中学校でのSMTはもっと酷いものだった。紙にクラス全員の名簿が刷ってあり、全員の「人柄」についてABCで評価をつけろというのである。そしてその評価は定期考査の点数に加算するという。  人間だから、気の合う人もいれば合わない人もいるし、ソリの合わない人と合う人がいる。グチとして「〇〇さんはキライ」と言ったり思ったりすることは、当然、だれにでもあろう。だからといって紙にランクをつけて提出するなどということが、しかもそれが中学生にとっては一大事の定期考査の点数に影響してくるとあれば、 「そんなことが……そんなことがどうしてできようか」  どんなに意地悪な人間でもこう思うのがまっとうな反応ではないか。なんともしれぬいやな気分で、私は全員に均等にBをつけた(全員均等のランクをつけたものは無効にすると担任はあとで言ったが)。  SMT。これは教育の現場でいったいどういう効果があるというのか? 行うことの是非もさることながら、「談合」で回答する子も多いだろうから統計学的信頼性についても疑問である。 援助交際  はじめて援助交際というネーミングを聞いたときには感心したものである。売春ではなくて援助、あくまでも援助。恋愛ではなくて交際、あくまでも交際。心理学でいう「自己防衛規制」のみごとなサンプルである。つまり、  ㈰肉体でお金を売るのは悪いことだわ。  ㈪あんなダサいおやじにこのかわいいワタシはつりあわないわ。あの人をべつに愛しているわけではないわ。  この二点の「いや〜な感じ(=罪悪感・やましさ・自分は卑しい人間なんじゃないだろうか……)」から、 「だいじょうぶ。そんなことないって」  と肩をやさしくたたいて逃がしてくれる語こそ援助交際だ。  高校生でなくとも援助交際をしている人間はいる。 「恋をしたわけじゃなかったけど、家がお金持ちで、出身大学もいいし(男が女を見る場合なら、美人でスタイルがよいし)……」  というような理由で決めた結婚は長期援助交際ではないか。 「もっと自分を大切にしなさい」  なんて言ったって、向こうにしてみたら、 「大切にしてるから、きれいな洋服でその大切な身を包みたい」  なのだからさ。 「あなた、自分がなにをしてるのかわかってるの!?」  なんて言ったって、向こうはわかってないどころか、若さが持つ魅力を「熟知」してるんだからさ。 「『伊豆の踊子』で、露天|風呂《ぶろ》に入っていた踊り子が学生さんを見つけたうれしさに素っ裸のまま手をふるシーンには、無垢《むく》のものだけが持つ悲しいまでの高潔な美があった」  なんて言ったって、向こう側もこちら側も、もう川端康成を読まないのがほとんどだからさ。  子供は善、美、素晴らしいと、こんなふうな呪文《じゆもん》は昔から唱えられてきたことだけれど、今の日本における大人の子供への態度は、もはや大人が子供を絶対王政時の王様のように|た《ヽ》て《ヽ》ま《ヽ》つ《ヽ》り《ヽ》も《ヽ》う《ヽ》し《ヽ》あ《ヽ》げ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》。コギャルという呼び方が一種の敬称である。  たてまつりもうしあげているうちに、大人は子供の頭になり、子供は大人の頭になり、両者の差がほとんどなくなってしまった。三十五歳の男は小学校六年の女と会話の程度が同等で、中学生の女は五十五歳の男と同じくらいに疲れやすくて骨折しやすい。  ということは、子供も大人もないんだからさ、援助交際をしているコギャルは税金を払うべきだよ。 「消費税はしばらくすえおき、コギャルから援助交際収入税をいただくことにします」  こう言う政治家が十三人くらいいてもよいのでは? 大竹しのぶ  はじめて朝の連続ドラマ『水色の時』を見たとき、中学生の私は、 「うーん、したたか」大竹しのぶのことを、そう思ったが周囲からいっせいに非難を浴びた。 「あんな純真で不器用でけなげな少女を、なんであなたはそんなふうにひねくれた見方をするの!?」  と。その後、月日は流れ、したたかな女といえば大竹しのぶの代名詞になった。 「なによ、今さら!」  私は怒っている。大竹に対してよりも、当時私を非難した人々に怒っている。二十年もかかってやっとわかったのか、このたわけめ。  時代を先取りしすぎた私は、今や大竹しのぶのプライバシーについては興味がない。公の面では優秀な女優さんだと思っている。俳優は演技がうまければそれでよい。歌手は歌がうまければそれでよい。ヘタでも味がありゃそれでよい。だから、週刊誌から彼女の新恋愛について訊《き》かれても、 「はあ、そうですか。どうぞお幸せに」  くらいのことしかコメントしようがない。  コメントを依頼してくる週刊誌によると、大竹の「男をオトすテクニック」として、  ㈰手放しに甘え、あなたが好きよと訴える。  ㈪デートには必ず子供同伴。  ㈫相手が夢中になったところで公表。  この三点がポイントなのだそうだ。  はてな?  ㈰と㈫は納得できるが、㈪には合点がゆかない。編集者のサカワキくん(男)も言っていた。 「どんなにセクシーな美人であっても、子供がいると思うと、女ではなく�ママ�に見える」  それなのに、なぜ、子供同伴のデートが男心をひくのだろう? 大竹が「略奪」したとかいう中村晃子の元婚約者や、明石家さんまや、野田秀樹にも子供がいたというなら話もまた別だろうが(家族ぐるみの交際が自然と「新家族構想」を生み、結婚にいたるというのはよくあることである。古くからある結婚相談所も、つれあいと死別したり離別して、かつ子供のいる者同士をひきあわせることが多い)、しかし、大竹しのぶの相手方男性たちには子供はいなかった。首をかしげる私に、 「あんたって、ほんとにバカね!」 「おまえって、バカじゃねえのか!」  デザイナーのユキさん(女)とコピーライターのホリさん(男)は言った。 「女がいて、そいつが子供を連れてて、父親のポジションだけがあいている。すると自分がそこにすわりたくなる男がいるのよ」 「そう。空いてる椅子《いす》があるとふと腰をおろしたくなるだろ、ああいう気分だよ」  よくいるじゃないか、そういう男は。と、二人は言うのだが、椅子にすわるのと子供の父親になるのでは覚悟がちがうと思う。 「もちろん、ちがうわよ」 「そのちがいがよくわからないときにカンちがいするんじゃないか」  それを幻想と呼ぶのだ、バカ。と、二人は言う。つまり幼児性が多分に残っている男は、「彼女には、俺《おれ》がついててやらなくっちゃ」と思うことで自分が大人になった(強くなった)ような幻想を抱く。しかし本当の大人なら「現実」がムードや情緒だけではやっていけないことを知っているから幻想は抱けない。 「小学生は地図を見ているだけで世界旅行したような満足感に陶酔できるけど、大人は地図を見ただけでは、旅行しているようでたのしい、とは思うが、実際に旅行したとは思えないだろ」  まったくバカだな。と、二人はバカ、バカ、を連発した。だが、大竹しのぶはべつにここまで計算して子供をデートに連れていったわけではないと思う。 「バカ。計算せずに先天的にそれができるから、したたかなんじゃないか」  バカ、バカと、二人はまた言った。 「んでもー」  先天的にしたたかならば、それは才能だと私は思うのである。  だいたい大竹しのぶが奥さんから野田秀樹を略奪したのも無理はない。野田秀樹の奥さんの名前は竹下さんという。竹下と大竹では、なるほど大竹が勝つ気がする。 お札戦争  はじめて「お札戦争」が行われていることを知った。  物価高騰の折り、そろそろ五万円札が登場するであろう。しからば五万円札の肖像画は「それはもちろん、坂本竜馬だ」という高知県民と、「それはもちろん大隈重信だ」という佐賀県民と、この両県のあいだでお札戦争がくりひろげられているという。  坂本竜馬と大隈重信。幕末から明治維新にかけての歴史を語るときに、欠くことのできぬ二人物。両者のうちいずれを新札の肖像とするか、それはもう白熱の戦いになるにちがいない。  TVでこのニュースを見聞きしていた私は、二人の写真が画面に出ただけで、手に汗をにぎり、腋《わき》の下に汗をかき、額と鼻の頭にもかいてしまった。  倒幕! 勤皇! 夜明け! 池田屋! 寺田屋! 脱藩! ペリー! 連合艦隊下関砲撃事件! たった四杯で夜も眠れず!  こういった語句を目にすると、かつて『幕末を語る会』の会員だった我が胸は、わくわく、どきどき。条件反射的に血|湧《わ》き肉躍ってしまうのだ。  大隈重信か坂本竜馬か。私はハムレットのごとくにTVの前で悩んだ。 「大蔵省と造幣局を作った大隈重信こそ新札の肖像にふさわしい」  佐賀県民の主張はもっともである。 「わが国初の株式会社である亀山社中を作った坂本竜馬こそ新札の肖像にふさわしい」  高知県民の主張ももっともである。  大衆人気からいけば、坂本であろう。なんといっても司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』は日本国民、必読の書。これを読まぬ者など日本人ではない。それに、プライド高くて疲れる性格のA型男のような長州藩と、好き嫌いがはげしくてわがままなB型女のような薩摩《さつま》藩を、あれだけ上手に仲人《なこうど》した坂本の功績はすごい。  しかし、大隈重信には早大卒業者という強力な駒《こま》が大勢付いている。それに、A型男とB型女の結婚式が終わるやいなや、さっさと死んでしまった坂本に代わり、婚姻《こんいん》届けや新居のせわ、家具の見立てまでしてやった大隈の功績は無視できぬ。 「ううむ、どっちにすれば……」  私は腕組みをし、山川出版の日本史の教科書を出してきて迷った。そして、 「そうだ、この人だっ」  はっきりと名前を出して決定した。坂本も大隈も、しょせんは男よ。男はとにかくめめしい。坂本も大隈も例外ではない。男はなにせ非論理的で討論ができない。  さらば新札の肖像画は、幾松《いくまつ》だ。会津藩の追手から桂小五郎を、掛け軸の裏に作った抜け道からちゃっかり逃がしてやった芸者、幾松(この抜け道を、筆者は京都に残る幾松の家に宿泊までしてこの目で見ている)。しょせん男は女がいなけりゃ何も行動できない生き物。ほんに男は小心者じゃきに。情緒思考でごわすばってん。新札は幾松どすえ。 訪れた土地  はじめて訪れた土地で必ず行くところがある。映画館と美容院。  とくに海外旅行では「風景のきれいなところ」を二つ三つパスして「ショッピング」をナシにしても、美容院と映画館を優先する。 「せっかく外国に行って映画なんか見ることないでしょうに」  などと言う人もいるが、これは大きなまちがいである。せっかく外国に来たからこそ映画を見るのだ。このメディアの持つ最大の特質である「鮮烈な映像の記憶を焼きつける効果」が、見知らぬ異国では最大に発揮される。  どんなにつまらない作品でも後々まで心に残る。しかも、バカみたいなスーベニア雑貨のように、後々になって部屋を汚すことが、ぜったいにない。お美しい石井苗子さんほど英語が堪能でなくとも、 「字幕がなくてわかんないよ〜」  なのが、またよかったりするのである。大学生のときにロスで見た『Wolfen』とかいう狼男映画は、いまだにどういう話であったのか不明だけれども、チラチラ残る映像を頭の引き出しから取り出して眺めると、なんとなくたのしい。デ・パルマの『blow out(邦題・ミッドナイトクロス)』にいたっては、ナンシー・アレンのマシュマロのように煽情《せんじよう》的な姿態を中心に数々のシーンがいまだにありありと甦る(よみがえ注・煽情的な場面ばかりを思い出しているのではない。ちゃんと花火の場面や交通事故の場面も思い出せる! ちょっとマシュマロの比率が高いだけのことだ)。  どちらの映画も、ロスの観客はいちいち感情を露わにしていた。ヒロインが死んだりする場面では全館が「おお」「ああ」「おーまいがっ」の声が満ちて、そんなふうなことも十年たったいまでも臨場感が損なわれない。  美容院も同じである。髪をいじられるというのは、半ば相手に身をまかせてるところがあるからして、不慣れな異国ではまごつくことしきり。先進諸国であろうと、そのシャンプーのやりかたひとつが日本とはちがう。おまけに、お美しい石井苗子さんくらい英語が堪能でないと、そりゃもう、 「こまったよう〜。わかんないよ〜」  なのだけれど、それがまたよかったりするのである。  五年前に行った香港の美容院ではグロリア・イップのように可愛《かわい》い美容師が「慣れてないのね。心配しないで」と耳元でささやきながら髪を洗ってくれ、彼女の乳房が肩や腕に触れたりして、まごまごしながらも気持ちよかった。  映画館と美容院、この二カ所には、その土地の、その街のその人々の「感じ」がもっともよく表れていると、私は勝手に判断している。旅先で、この二カ所を訪れることは、ささやかな冒険であり、自分だけの絵はがきが買える場所だと思うんである。 オールナイト  はじめてオールナイトに行ったのは一九七九年である。オールナイトというのは一晩じゅう映画館で映画を見ることである。ビデオが普及した現在、あまりなじみのないものになってしまった。  むりもない。ビデオなら、自宅で寝っころがってハリソン・フォードやブラッド・ピットを見ていられるが、映画館となるとずっと腰かけた姿勢をつづけねばならぬ。  ロードショー館(一番館)でも土曜日はオールナイトをやっていた(今もやっている?)が、それは同じ映画をずっと上映するオールナイトであり、今、ここで私が指しているのは、名画座(二番館)でやるオールナイトのことである。四本ないし、五本を一晩かけて見るオールナイトだ。  となると、椅子《いす》は当然、ぼろっちい椅子である。前の座席とのはばもせまい。これで映画五本はとても疲れる。  しかし、当時は見逃した映画を見ようとすれば名画座で見るしか手段がなかったし、オールナイトともなると、超見逃していて見たかった映画、が見られるかっこうの手段だったのだ。  戦後まもない時代のことではないぞ。ジュディ・オングの『魅せられて』、さだまさしの『関白宣言』がヒットし、ソニーがウォークマンを新発売した時代にあって、オールナイトはまだまだ映画ファンの集合場所であり、体力と時間のある大学生の醍醐味《だいごみ》でもあった。  スタート時間は、だいたい夜の九時である。映画と映画のあいだに休憩時間が入って、終了はだいたい朝の五時半である。  となると、まずスカートで行ってはいけない。あぐらをかいたり、正座をしたり、片足立てをしたり、また、ふつうの座り方にもどったりして、いろいろと姿勢をかえられるように、ぶかぶかのズボンとトレーナーで、ウエストはマークしない服、これがラクである。そして、途中腹がへるのでおにぎりを持参する。  金のない大学生は売店で割高な食品を買うのを避けねばならないのだ。よって水筒にお茶を入れて持参するとパーフェクトなオールナイト・ウェアとなる。ほとんどハイキングである。  さて、はじめてのオールナイトで、私はなにを見たか。なにを見たんだっけか? すっかり忘れてしまった。『マタンゴ』を見たさに王子《おうじ》まで出かけたおぼえはあるが、はたしてそれがはじめてのオールナイトだったろうか? 『ガス人間第1号』『フォクシー・レディー』はオールナイトで見た。『シャイニング』『夜よ、さようなら』も。『怪奇・××人間』もオールナイトで見た。××の部分が差別用語にあたるので伏せるが、そういう意味で今ならぜったい上映禁止になるような映画もずいぶんオールナイトで見た。  オールナイト終了後、ぱきぱきのシャツとネクタイと背広で出勤する会社員でいっぱいの山手線に、青い顔で目を充血させふらふらになって乗っていた記憶ばかりが今は鮮やかによみがえる。 オロナミンCドリンク  はじめてオロナミンCドリンクを飲んだのは小学校三年生ぐらいだった。  大塚製薬の当時の商品コンセプトがどのようなものであったのか、子供だったのでわかろうはずもないが、すくなくとも私の周辺においては、オロナミンCはビタミン剤的な、漢方薬酒的なものであった。値段も当時の他の品物と比較するとずいぶん高かった。 「子供だったら瓶の半分までしか飲んではいけません」  と、きつい口調で大人に言われ、言われたとおりに半分だけ飲んだ。 「おいし〜い」  そう思った。理由は、おそらく次の二点による。その一、昭和四十年代当時はまだまだ炭酸飲料の味が子供にとっては新鮮だった。その二、瓶の見かけが薬っぽいので、まずいのではないかというマイナスの予想が働いたぶん、実際に飲んだときにはプラスの感想が倍になった。 「おいしい。もっと飲みたい」  私は思ったものだ。あまり飲んではいけない、などと言われるとよけいに飲みたくなるのが人の常。かのコーラ伝説(飲むと歯が溶ける、とか、500ミリ瓶には不能になる成分が入っている、とか)がいい例である。オロナミンCを丸ごと一本ぐびぐびと飲んでみたいと夢見ていた。  それぐらい高嶺《たかね》の花のイメージだったのだが、まもなく大塚製薬はアニメ『巨人の星』と『アタック�1』の提供をするようになる。これでオロナミンCはぐっと親しみやすい花と変化し、漢方薬酒というよりは健康飲料というイメージが強くなった。  番組の途中に流れるCMはもちろん大村崑のものが有名なのだが、私が忘れがたいのは�オロナミンC家族バージョン�である。  男子小学生が自分の家族のオロナミンCの飲み方を紹介する。ママの飲み方が特筆もので、 「ママは美容にオロナミンC」  と、子供の声のかぶさる画面の中、風呂場《ふろば》からバスタオルを巻いただけの姿で出てきて冷蔵庫を開けて微笑《ほほえ》みながら飲む。私の記憶ちがいだろうか、とにかく、 「んまあっ、ずいぶんとエロい母親だこと」  という印象がついたところにすかさず、このエロい母親の息子が、 「ぼくは卵とミルクでオロナミンセーキ」  と、オロナミンCの中に卵と牛乳をぶちまけてくれるんである。 「うげえ!」  私はこのCM以来、オロナミンCに対する執着心がなくなった。考えてみれば、オロナミンセーキを作っていた子供は私と同じくらいの年齢だった。しかし、 「私、子供のころはオロナミンCといえば卵と牛乳で飲んでいたわあ」  という思い出を語る友人は、今のところ一人もいない。ほんとに作ってみたら、まずそうというマイナスの予想が長年働いていたぶん、じつにうまいと十倍くらいプラスに感じるのかもしれないが……。 ガーター・ベルト  はじめてガーター・ベルトを買ってから十二年たっていた。筆算して数えた。そして呆然《ぼうぜん》としている。  なぜかというと十二年間、私は一度もそれを使わなかったから。  ガーター・ベルトだけではない。速見真澄(注1)が北島マヤに贈った薔薇《ばら》のような色あいのスリップ、ペチコート。ベトナム戦争を知らないころのハリウッドの楽屋のクッションのような夢みる色あいのパンティ、ブラジャー。  太陽のまぶしさに人を殺そうかと冗談を言いながら泳ぐコートダジュールの海のような色あいのビスチェ、キャミソール。ほかにもわんさかわんさか、とてもこのスペースでは書ききれない量の下着が、未使用のまま私のタンスには眠っている。 「いつかデートのときに着るのだわ、ワクワク」  と、女性にありがちな希望を抱きつつ、主たる購買動機は、 「わ、きれい。買おうっと」  であった。きれいなものは実用的ではない。ふだんは、汚いものとはぜったい言わないけれど(ボロは着てても下着は錦《にしき》、というのを信条としている)、機能性本位のものになってしまう。具体的に商品名をあげるとMICHIKO・LONDONのようなタイプである。下着なのかスポーツ・ウェアなのか判断がつかないような無機質なもの。  つまり「ふだん」がずーーーっとつづいたということである。十二年間もつづいたということである。性病なんかちっとも怖くないということである。  真新しき下着の詰まった数段の引き出しをながめて、私はほとほと情けなくなった。ここのところ地震もつづく。もし、東京に地震が来たら死ぬだろう。これらの下着は一回も使用されることなくマグマに呑《の》みこまれてしまうのか。 「こうなったら着てやる! 着て、着て、着まくって、地下鉄の通風口の上を選んで歩くようにしてやる。ハッピーバースデイ・ミスター・プレジデント(注2)のノーリターンの聚落《じゆらく》よン、だ!」  まず形式から入って内容を呼ぼう。まずガーター・ベルトにTバックをはいて「ふだんではないこと」を呼ぼう。  それでガーターでストッキングを吊《つ》ったところ、太腿《ふともも》の隙間《すきま》が寒い。そのうえ、ミニスカートだとその隙間が腰かけたときに見える。しかし、しかたがない。 「このまま出かけてやる!」  スカートだけを長い厚手のものにして、私は出かけた。 「ふだんではないこと」は起こらなかった。出かけた先でスキヤキをごちそうになったので、帰ってきたら、ミコノス島を吹きぬける風のような色あいのブラジャーとパンティとスリップとガーター・ベルトに|甘辛い《ヽヽヽ》スキヤキの匂《にお》いがたっぷりとついていただけであった。今度は|甘い《ヽヽ》思い出をつけて帰宅したいものだ。  注1 漫画『ガラスの仮面』の登場人物。  注2 全てマリリン・モンローに関するセリフです。 カップ・ヌードル  はじめてカップ・ヌードルを食べたのは中学三年のときである。昭和四十九年。TVにカップ・ヌードルのCMがオンエアされはじめた。  ニューヨークの街がブラウン管に映る。べつに「ロケ地・ニューヨーク」とカラオケのように出たわけではないから、もしかしたらニューヨークではなくロスアンジェルスだったのかもしれないが、とにかくアメリカと推測される都会である。  ビルが立ち並び、車が走り、人がいっぱい歩いている昼間の光景。金髪の女の人がTシャツにジーンズ(ちょんぎったジーンズだったような気がする)をはいて自転車に乗って画面を通過。軽快な音楽。 ♪友情ということばを 古い箱からとりだして wow wow オー ハッピー yey yey マイ カップ・ヌードル♪  とかいうような歌が入って、ラストは街にかぶさってカップ・ヌードルがアップになるCMだったと記憶している。  それは画期的な食べ物だった。|あらかじめ《ヽヽヽヽヽ》カップにはいっているラーメンなのだ。それを、これまた|あらかじめ《ヽヽヽヽヽ》付属の透明なフォークで食べるのだ。それまでの日本人の食文化の発想をくつがえす食べ物だった。 「カップ・ヌードルというものはどんな味がするのだろうか?」  中学校では生徒も先生もだれひとりカップ・ヌードルを食べた者がいない。人口三十万人以上の都市で生まれ育った人にはわかるまい。新しい商品が発売されたところで田舎の村にまで流通してくるにはタイムラグが生じるということが。  TVではさかんにCMされ、日清提供の日曜六時からの『ヤングOh!Oh!』では運よく舞台に上がることのできた参加者にプレゼントされているというのに、田舎の村に住む者はカップ・ヌードルの実寸大すら見当がつかない。そんな風俗的ひもじさを体感したか否か、これがやがて成人したとき、いかに人格に大きな差をもたらすか大都市育ちの人間にはわかるまい。  恋におちて互いの幼年時代の心の襞《ひだ》に触れようとしても、フン! フン! 都会の男になんか、この「あえかにふるえた思ひ」が理解できるかい。高校生の分際で名画座なんぞに行ってゴダールがどうのこうの青くさくヤッてた奴《やつ》らに、カップ・ヌードルを買えなかった思いを、wow wow 理解してもらおうじゃねえか。みどりが多くていいのなら、とっとと田舎に住め。二度と帰ってくるな。  かくしてカップ・ヌードルを学年で一番に食べたのは、私であった。どのような経路で我が家が入手したか。御歳暮である。都会の人から御歳暮にカップ・ヌードルをもらったのだ。おいしいもまずいもない。とにかくカップ・ヌードルを食べた。それで胸がいっぱいであった。  同級生に話したところ、 「いややわあ、あの人、自慢げに……」  と、とても嫌われた。わかるかい、こんなあえかな息づかいが都会の人間にィ。 彼から手紙をもらった  はじめて彼から手紙をもらったのは十年も前のことになるだろうか。  彼は読者である。当時で二十代。四通ほどもらった。おそらく生涯、忘れ得ぬ手紙であろう。 「ぼくは女性にいじめられることに悦楽を感じる男なのです」  と、彼は自分の性の嗜好《しこう》を|ことこまかに《ヽヽヽヽヽヽ》告白していた。その|ことこまかさ《ヽヽヽヽヽヽ》といったら、本当に|ことことことこまかい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。彼をいじめるべき女性の肌質や髪形やスタイルについての好みはもちろんのこと、 「鼻の先端にごくうっすらとした割れスジが入っていないといけません!」  と、断言してまでことこまかい。そんな彼は「理想の女王様」にめぐりあい「恥ずかしさで全身が燃え上がりそうなプレイをしてもらって」いて、そのプレイ内容がまた、ことこまかに綴《つづ》ってある。 「んまあ、すごいわ。私もこんなプレイがしてみたいわ、どきどき、あはーん」  と、思って私がその手紙を覚えているわけではない。要するに彼は、女性に自分がオナニーをしているところを見られるのが好きであると、ただこれだけのことなんである。これだけのことなんだが、 「昨夜などは、女王様から|猿ぐつわ《ヽヽヽヽ》をさせられて、みじめで恥ずかしいオナニーショウを演じました」とか「先日は、女王様の命令で〇〇ビルの、いつ、人が来るかもわからない所で恥ずかしいオナニーショウをしなくてはなりませんでした」とか「女王様は、ぼくのオナニーショウを見て笑いながらののしります」とか、オナニーをしました、と書かずに、いちいち、オナニーショウをしました、と書いてあるために印象的だったのである。しかもオナニーショーではない。オナニーショウである。あくまでもショウなのである。  これは強烈な記憶となった。彼の手紙を読んで以来、私までオナニーの下にはショウをつけないとすわりごこちが悪いと感じるようになってしまったのである。 「原稿を書くときの最大の注意点は、それがオナニーショウで終わってしまわぬようにすることではないだろうか」  などと、つい書いてしまい、編集者から、 「あのう、ここはべつに�ショウ�はつけなくてもいいのではありませんか?」  と、指摘され、私こそ手紙の彼のように恥ずかしい思いをしなくてはならない。映画を観に行っても、予告篇で、 「近日、当館にてロードショウ!」  などと大きな文字で出てくると、たとえそれが『ガンジー』や『ジュラシック・パーク』であるとわかっていても、エロ映画の予告篇を見たような気になってまごつかなくてはならない。  そこで、こうして書いてみんなも同じようにしてやろうともくろんだしだいである。アーウィン・ショウ! バーナード・ショウ! キ ス㈰  はじめてキスをするときというのは、男のほうが決断力を要されるようである。  キスという行為自体がはじめてな場合は当然のこと、過去に何度か行っていようと、その女とははじめてのとき、 「そりゃあもう、迷っちゃいますよ……」  というのが、数多い日本人男性の知人からの情報である。数少ない日本人以外の男性の知人からの情報によると、 「キス? まあ、ティーンのころはね」  というかんじである。ちなみに数少ない知人の国籍は、独、米、香港、英、北欧、豪である。欧米ではキスをしたからといって後のコースも暗黙のうちの了解には、必ずしもならないため、決断力の大きさが日本とは異なるのだろうと推察される。それでは、日本に限って言及するが、キスは迷わずすべきである。しなさい。しろ。 「キスしていい?」  この質問は愚の骨頂である。なぜなら、相手がYESの場合、せっかくの気分もそぎ、考えさせてしまう。 「キスしていいかどうかですって? 私がさっきからこんなに好意を示しているのがわからないの、このバカ!」 「キスしていいかどうかですって? どう答えればいいのよ。ワビ、サビのわからない無粋な男ね、このバカ!」 「キスしていいかどうかですって? どうしよう。ええ、と言ったら遊び慣れてる女だと軽蔑《けいべつ》されるのではないかしら。どうしてこんなこと訊《き》くのよ、このバカ!」 「キスしていいかどうかですって? 私の顔色を窺《うかが》うとは、なんと小心者なの、このバカ!」  等々、つまり「このバカ!」としか思われない。それどころか、考えすぎる女の場合、意思としてはYESであったものを、ことばとしては、NOと言わせてしまう。  かたや、最初からNOと思っている場合は言わずもがな。 「キスしていいかどうかだと? おまえなんか嫌いだよ、このバカ!」  である。要するに、相手の女がYESでもNOでも、こんな質問をすると結果は「このバカ!」なのだから、どうせバカならしなきゃ損である。したかったらサッと顎《あご》をつかんでサッとすればいいのである。相手がYESの場合はこの後に盛り上がり、相手がNOの場合は実行の前にちゃんと拒否してくれる。拒否されるかされないか、そんなことは、その前の段階で悟れる。NOの人は歩いているとき、食事してるとき、相手はあなたとの間に距離を作ろうとする。キスをするのがいやな男とは、ぶ厚いコート越しに肩が一秒触れてもヘドが出そうになるのが色恋というものである(男性に想像してもらいたいのだが、いくら心から好きでも男性の友人と肩を数秒でも触れ合わせたいだろうか?)。  こういう話をすると、いかにも私がキスをする幸運に恵まれきった女のようであるが、実際には誰もしてくれないので、はじめてのキスは金を払って頼んだ。よってこの本を読みましたと、路上で見かけた美人にいきなりキスはしないように。 キ ス㈪  はじめてキスをしたのは二十四歳だった。 「遅い」  ある一部の人々は思うのかもしれない。すこやかな家庭に生まれてすこやかな村に育ち、かつ、マスコミの情報をすこやかに信じている一部の人々は。しかし、未婚女性がキスをする機会のないほうが普通ではないか。私の常識ではそうなる。  キスをしてくださった相手は会江田省造《かいえだしようぞう》さんといった。八歳年長。顔を刻明にはおぼえていないが四輪免許を持っていた。ほとんど文字の読めない人で、映画の看板があっても題名が読めないのだった。頭髪が薄く、体毛が濃く、多汗症でワキガで、身長は180。ナイフとフォークが使えず、エビフライとごはんを食べるときには獣食いになる。大食だった。そしてどんな道でも決して迷わない。ハゲで毛深くて汗っかきでワキガで大男で大食で低学歴で三白眼で道に迷わない。異性に対する私の好みの条件をすべて満たしていた会江田さんだった。さらに彼は「〇〇の会江田」という異名をとるくらい好色であった。〇〇とは特殊浴場が密集する地帯である。  彼は連日その地帯に通い、帰宅後は妻とヤリ、妻が寝てから愛人のもとへ行くのだった。これほどすばらしい男がほかにいるだろうか。私はいつも尊敬のまなざしで会江田さんを見つめていた。だが、私には色気がなかった。謙遜《けんそん》ではなく、本当に私には色気というものが欠落しているのである。欠落しているから肉欲を描く小説が書けたのだと思うが、そんなことは会江田さんにとって無関係であり、ようするに彼は私を好きにはならなかった。私も好きにさせる気力がなかった。ただ、私はキスというものをしておきたく切望していた。  自分が書く小説の登場人物ばかりがキスをしたりセックスをしたりするのは不公平な気がした。そこで彼を男の中の男と見込んで、私は彼に五百円を支払い、キスをしてくださいましと頼んだ。当時、私は食事代にも困るほど貧乏だったので五百円は大金だった。  六年を経て、食べるものには困らない経済状態になったが、依然、男には赤貧であった。そこで、二人目のキスはまた金を支払った。金額は十倍払った。女は体を売れるからいいよな、と、よく男性は言うが、男でもキスだけで五千円稼げるのだから考えを変えてほしいと思う。  つづいて三人目は無料であったが、頼むからキスしてください。とやはり私は懇願している。キスの後すぐフラれた。  四人目もやはり向こうからしてくれることはなく、私が頼んだ。世の中には男性のほうから積極的にキスを望まれる優れた女性もいるという。どうしたらそうなれるのだろうか。わからない。  ちなみに四人目から二年後に五人目(去年である)に、やっぱり私は頼んでしていただいた。キスを、頼まないとしてもらえない人生は悲しい。キスより先に進まない人生もわびしい。  それでも生きていることはたのしい。ホワイトデーには26000回のキスを返してください。ああ、また頼んでいる私……。 クラス  はじめてのクラスで自信を持って言ったギャグが受けなくて自閉症的性格に変わってしまった、とは、ある歌手の週刊誌記事。 「それは、さぞかし辛かったことだろう」  銀行の待ち時間に週刊誌を読んだ私は、番号をアナウンスされても聞こえないほどに、この歌手の御心情をお察しした。  ギャグが受けない。笑わせようと思ったのにスベった。  これは精神的苦痛の最大手と言っていい。とくに関西地方では。歌手は東京都出身だそうだが、もし彼が関西出身であったなら、ヘタするとこの日から未来|永劫《えいごう》、社会復帰できなかったかもしれぬ。 「何かおもしろいことを言わなければいけない。笑わせてあげないといけない」  さて、私はこう思ってミヤマさんの横にすわっていた。お寿司をごちそうしてあげるというミヤマさんに対しての感謝の気持ちを関西流に表現すると、こうなるのである。といって、なにも「ごめんクサイ」と吉本式のギャグを言うわけではなくて、ミヤマさんが好きだという映画の話をした。ミヤマさんは四十六歳なので、彼の好きな映画を、私は見ていないのだけれど、書籍等で得た情報の記憶を駆使して、まあ、早い話、懸命に彼に合わせた。  だって、お寿司をごちそうしてあげる、などと、とてもとてもうれしかったのだ。ミヤマさんと会うのは久しぶりだったし、 「ぼくがなぜ、この年まで独身なのかというと……」  と、彼も自分の恋愛観を話してくれたりしたので、寿司屋のカウンターでは笑い声が何度も発せられた。だが、別れぎわ、 「きみって、本当に女としての魅力がなにもない人だね。きみの話はいちいち正論だけど、会社で仕事の話をしているみたいでつまらない」  と、ミヤマさんは言い、自分の職場にいるデザイナーの女性について、 「デザイナーとしては大したことなくて、この子はこのまま終わりだな、って思うけど、彼女といるほうがずっと女を感じる」  と、つづけ、 「きみも女性として改めないとね」  と、アドバイスした。  がーん! 私は冒頭の歌手のように、この夜を境に自閉症的性格になりそうだった。女を感じないとミヤマさんに言われたことが悲しかったのでは、全然ない。 「あのシャレも、あのギャグもみんなスベってたのかーーーっ!」  というショックである。 「あんなに高度なシャレがウケないとは、ほんとに坂東の男はアホの気取り屋!」  という「|お《ヽ》教養趣味」を侮蔑《ぶべつ》する心理もまじっていたかもしれない。  ミヤマさん。私はなにもあんたに女を感じて欲しくはないんだが……。 芸能人  はじめて遭遇した芸能人は、天本英世である。時は一九七七年八月。私は旺文社の夏期スクーリングを受けるために一人で上京してきた童顔で初々しい、すなわち、田舎くさくてダサい女学生であった。  スクーリングは参宮橋のオリンピック・センターで行われた。五人部屋の他の四人は全員、千葉のP高校の同級生同士であったため、全員と仲良くなったとはいえ、必然的に私にはどことなく疎外感があった。そのうえ、センターは冷房がきいていて寒いったらない。ジャンパーなど持参しているはずもなく、日々、震えていた。そこで小杉くんに電話をかけた。私の高校の同級生である。彼は音大受験者用の夏期講習のために私よりずっと先に上京していた(会場は全然別)。 「じゃ、新宿で会おう。ジャンパーも貸したげる」  ということになった。ところが、小杉くんは待ち合わせ場所として、 「新宿駅の�銀の鈴�で」  と、とんでもない指示をしたのである。 �銀の鈴�は東京駅の待ち合わせ場所である。今なら彼のまちがいがわかるが、そのときは彼を信じきっていた。当然、新宿駅で私は迷った。通りがかった婦人警官に尋ねると、 「東京へは家の人にちゃんとことわって出て来たの?」  彼女は私を交番へ連れてゆき、質問攻めにする。ちょうど警視庁の夏期家出防止特別巡察期間に当たる時期だったらしい。質問にイライラした私が、 「なんでもいいさかい、早《は》よう�銀の鈴�を教えてえな」  関西弁を出してしまったため、ますます彼女は私を家出少女だと思い込んだか、 「新宿には�銀の鈴�なんてお店はないのよ。なんのお店?」  釈放してくれないのである。彼女もまた�銀の鈴�が東京駅の待ち合わせ場所だとすぐにわからないほど東京に不慣れな人だったのだろうか。交番の別の警官二人も、 「ギンノスズってどういう意味だろう」  と、まるでミステリーの謎《なぞ》ときをするような顔をする。東京に不慣れな人がそろった交番だったのだろうか。あちこちにさんざん電話をかけまくった果てに、結局、 「あなた、きっとそれは�銀の鈴�じゃなくて�鈴屋�とまちがえているのよ。�鈴屋�は新宿マイシティ・ビルの三階よ」  と、言われ、私はぜったいおかしいと思ったのだが、もう、一分でも早く交番から出たく、 「いやぁ、そうですか、おおきにぃ」  ソツのない笑顔で踵《きびす》を返した。一応、�鈴屋�に行った。洋服屋である。小杉くんと会えるわけがない。しかし、エレベーターの中で、天本英世と二人きりだった。 「ラッキー やっぱり東京やわぁ」  と、心中で思っていた私は、やっぱり家出少女の心理とあんまり差はなかったかもしれない。平成教育委員会。 ゲイ・バー  はじめてゲイ・バーに行ったのは一九八三年である。この二年前に友だちになったゲイの簗《やな》さん(本人の了承を得て本名)に連れられて行ったのである。  その店は、ものすごく不愉快だった。店主が私のことを「なによ、あんた」と言うのである。「なによ、あんた、そのブカブカの服」とか「なによ、あんた、デカいわね」「なによ、あんた、その顔でスッピンなの」「なによ、あんた、そのデカいずうたいでナントカカントカ」とか、すべての会話がこれだけなのである。不愉快だった。とにかく腹がたった。 「しようがないんだよ。彼らは女の子が来るといじめることが習慣になっちゃってるんだよ。たいていの女の子はそれをよろこぶからね」  簗さんは言い、それを聞いてますます腹がたった。腹がたつなどというどころではなく、涙が出るほどはげしい怒りをおぼえた(喜怒哀楽の感情のうち、私は「怒」の場合のみ涙を出す)。怒りの理由は「デカい」とか「その顔で」とか言われて傷ついたというより、次の思いによる。  八〇年代というのは「カミング・アウト」ということばの普及にはまだ十年早いころであった。このさい言わせてもらうが、当時から私はゲイに対してなんの偏見も持っていなかった。まったく持っていなかった。私自身が女も好きだからである。近年の「カミング・アウト・ブーム」みたいなものに対しても「へんなの。なんでわざわざそんなことしなくちゃなんないのかな」とふしぎに思うくらい、同性愛に対して偏見を持つ人がいるということが想像できなかった。簗さんを紹介されたときも、好奇心めいたものはまったくなく、彼は私より十歳年長であったが、陽気でかつ他人を細かく思いやり、センスがよく話題が豊富な、その人柄にひかれた。彼は小学生にして早々とカミング・アウトしていた人である。  で、ゲイ・バーといえど、バーなんである。酒は、自分で買ってきて家で飲めばバーに行くよりはるかに安い。それをなぜ人はバーに行くのか。その理由こそ接客業のプロが忘れてはならないことだと思うのだ。同様に、納税者に対して敬語もろくに使えない公務員に対して私は腹をたてるし、歌のヘタな歌手に対しても腹をたてる。  だから、私はその店で怒りをおぼえたのだ。なによりもこの店主の態度のような態度こそがゲイへの偏見だと。ひいては自分の大事な友人をバカにされたような気にさえなった。 「いじめられると女の子はよろこぶ」のなら、彼女たちもゲイに偏見を持っている。それともマゾヒストか。私は、それはそれはやさしい顔をしていて、よもやこんなやさしげな人が怒ったりしないと思われがちだが、いじめられたら瞬時にして暴力に訴える。しかし暴力はいけないので、こみあげてくる暴力欲を抑えようとして涙が出るのである。  小学生のときもいやがらせをしてきた男子同級生の足を手持ちのカマで切りつけたくらいなので、今から思えば、よくあの店で暴力ざたをおこさなかったものだと、とりあえずホッとしている。 声  はじめて聞く声であった。あたりまえである。知らない人間なのだ。男であった。夜中の三時に電話をかけてきたのである。 「ぼく、たまってるんです。どうにもしようがないんです」  私が出るなり、彼はそう言った。 「お姉さん、これからオナニーしていいですか」  つづけてそう言った。いくぶん息づかいが乱れている。私は答えた。 「どうぞ」  たいへん暇だったのである。そもそも私はたいてい暇である。多くの人はなんであんなに忙しいのであろうか。だれかに電話すると、まずキャッチが入るではないか。うらやましい。私のところへは仕事の人からの電話はかかってくるが、私的な電話はかかってこない。めずらしくかかってくるとこれである。後鳥羽院のような気分で、どうぞ、と言っているのに、 「えっ」  相手は沈黙してしまい、なかなかはじめない。オナニーをはじめないで、 「ぼくは二十一歳で船橋市に住んでいてQ電気の工場に勤めています。月収は十五万円です。自宅通勤です。家族構成は……」  自己紹介をはじめる。 「ぼくは身長が低いし、おもしろい話もできないので、彼女もいなくて……」  悩み相談もはじめる。 「好きな女の子に気持ちを打ち明けられません。だからこうして電話でオナニーするしか……」  私はすこし腹がたった。 「なぜ、そんなことを決めるの? 打ち明ければいいじゃないですか」 「いや、そんなこと怖くてできません」 「なんで?」  もっと腹がたった。 「打ち明けたら気まずくなるようで」 「それは傲岸《ごうがん》なええかっこしいじゃないの! 自己保身でがんじがらめになって、あたら精子を無駄遣いして! 世の中にはね、セックスしたくてもしてもらえないのに、さぞかしセックスしてると思われている女の人もいるのよ!」  なんだかものすごく腹がたった。腹がたって腹がたっておさまらなくなり、罵倒《ばとう》するほど彼を叱《しか》った。しかし罵倒も過ぎれば、 「あきらめちゃだめ! 行動する前から決めつけてはだめ! フラれた数だけ男はかっこよくなるのよ!」  ほとんどPHPの本のノリになる。 「お姉さん、やさしいんですね。ぼく、おねえさんみたいな人と早くに知り合いたかったなあ」  彼は礼を言い、お姉さんと話していたらいやらしい気分はなくなったので明日から前向きに生きると言った。 「なによ!」  電話のあと、さらに腹がたった。ヘンタイ電話をかけてくる男さえも理性的にしてしまう自分に対して、つくづく。 ゴキブリホイホイ㈰  はじめてゴキブリホイホイが発売されたのはいつだっただろう。ずーっと前からあるように錯覚している人も多いようだが、一九七〇年以前にはなかった。  ゴキブリホイホイが発売されるほんのちょっと前に、どこかの会社からゴキブリ取り器が売り出された。サイズはゴキブリホイホイとほぼ同じだが、これはプラスチック製であった。  長四角の容器である。入口に金属のドア(?)がついている。金属ドアは斜めについていて、「入る」方向へは軽くかしゃりと上がるが「出る」方向へはつっかえてしまって上がらない。つまり容器に入ったゴキブリは出られなくなるしくみになっていた。  基礎は名案だとは思う。かつてわが家で使用したときも、ゴキブリがわんさか捕れた。目にする数もめきめき減ったような気がした。だが、 「この、わんさか捕れたゴキブリをどう処理すりゃいーの?」  という身の毛もよだつような問題点にたちはだかられたのである。容器の上方部は透明だ。うようよ、わらわらとうごめく大量のゴキブリが一目|瞭然《りようぜん》なさまは、 「ウ、ウ、ウエーッ」  であった。小学生の私は、 「容器が存在していないことにしよう」  と問題点を直視することを回避し、容器の設置された場所を通過するさいには目をつぶったり足早にかけぬけたりしていた。直視した家人の発言によると、 「死んだ仲間をエサにしている」  であるらしかった。  そもそもプラスチック製ゴキブリ取り器に決定的に欠けていたのは、 「使い捨てる」  という発想である。  この発想は昔の文化にはなかった、歴史の浅い、新しい発想である。高度経済成長後であってさえもゴキブリ取り器を「使い捨てる」という発想が発売元にひらめかなかったくらい、最近の思考であり、発想後はまたたくうちに日本、および旧西側諸国に蔓延《まんえん》してしまった様式である。  そのスピードたるや、「リサイクル」について喧々囂々《けんけんごうごう》と討議しなくてはならぬはめになってしまうほど。その発想から出るゴミの量たるや、かつてプラスチック容器にわんさか捕れたゴキブリの量ほど。  なんでもかんでも使い捨てることに対してはぜがひでも考え直す必要があるけれども、それでも、注射器、コンタクトレンズ、そしてゴキブリホイホイは「使い捨てる発想」の代表的優等生製品であると思う。今や、だれもゴキブリ取り器を何度も使おうとは発想しまい。ゴキブリホイホイが発売されたとき、 「ああ、これで助かった」  と心から思ったものである。 ゴキブリホイホイ㈪  はじめてゴキブリホイホイが発売されたとき接着剤はまだチューブに入っていた。  ゴキブリが入り込む長方形の箱、すなわち現在でもおなじみの「ゴキブリハウス」を折り曲げて、あらかじめ組み立てやすいようにクセをつけておいてから、ハウスの床面に接着剤を塗る。  今はこの作業が除去されて、消費者はただシールをはがせばいいだけになっているが、以前は床面に「m」の字のような点線がにょろにょろと描いてあって、その点線に沿ってチューブから接着剤をしぼり出して塗る仕組みになっていたのである。  これがけっこう面倒な作業であった。歯磨き粉のようにスムーズにチューブから出てくれない。なにせ強力な接着剤であるから、出てもベタッと床面にくっつき、カーブさせようとしてもベターッと糸がひく。点線のmの字などとてもじゃないがなぞれない。ヘタすると指について洗うのがたいへんだ。 「ふうふう。やっと5セットぶん塗れた」  という具合で塗り作業を終えると、たいていチューブがほとんど一本、余る。  なぜこのような事態が生じるかというと、ハウス一個につき一本のチューブがついているのだが、先に述べたように塗り作業がスムーズになされないため、第一のハウスで接着剤が若干残り、これを第二のハウスに利用すると、第二のハウスぶんの接着剤がまたちょっと残り、またこれを第三のハウスに利用すると、第四のハウスぶんのやつが……と、順々に接着剤が残っていくのである。こんなものが残ってもしかたがない。 「ちら」  視線がある物へ移る。何か。ゴキブリホイホイ5セットが入っていた箱である。  長方形で天地が低い。そうだわこの箱もハウスにしてしまいましょ、と平均的知能の人間なら当然思う。そこで鋏《はさみ》を持って来、箱の一部を切り、接着剤を塗り、塗ったらセロテープで長方形状態に戻し、ゴキブリの簡易ハウスを作り、かくして5セットぶんの値段で6セットのハウスを作ったものだった一九七×年。  しかし、ゴキブリホイホイというのはなんであんなに屋根が赤いのだろうか。屋根に猫もいるし、白いフランス式の窓(両開き式)もあって、鮮やかな黄色いカーテンもついて、ゴキブリが窓辺の草木をファンシーに微笑《ほほえ》みながら見ているところまでイラストで描いてある。この色づかいのために部屋にゴキブリホイホイを置くと他の家具との色調和がとれず、いくら物陰に置いたとしても、置いたそこだけ、 「うえーん。ダサい」  になるのはどうしても回避できない。ゴキブリにとっては無印良品のような色調のハウスであっても同じなのではないのか? それとも発売元はゴキブリの習性を研究して、彼らが赤い色やフランス式の窓の絵を好むというデータを掴《つか》んだのだろうか? 私にはあの色調が、浅間山荘連合赤軍事件の時代を思い出させるのだが……。 古典  はじめて「古典」という独立した科目が授業に出てくるのは高校からである。特殊な私立は例外として県立の普通科高校だと『方丈記』『徒然草』とかが教科書に載っている。 「そんな教材選択がいかんのだ」  と私は今になって思っている。高校生といや十五〜十八歳。弁当は二時間目で食べてしまい、昼は購買部でパンを買い、クラブが終わってからまた学校の近所でお好み焼きを食べ、家に帰って夕食を食べ、深夜放送を聞きながら夜食のうどんを食べ、男子なら毎日二、三回はオナニーをし、女子なら徹夜してでも髪をカーラーで巻き、それでも血気はちっとも衰えない、そんな年代にある者が、あんなジジイの心境を綴《つづ》った読み物にシンパシイを抱くだろうか?  まだしも現代語で綴られているなら、ジェネレーションの差による考え方、見方の違いも「なるほど、シブい」と思うかもしれない(心ある若者なら)。だが古典というのは、たしかに日本語ではあるのにその文字の組み合わせときたら「せさせたまひて」とか「さばかりにやありけむ」とか、ワケのわからんマッチングになっている。死ぬときの松田優作じゃなくても、 「なんじゃこりゃ」  と教科書をポイ投げするのが気ぜわしい年代にある人の心というものではなかろうか? ポイ投げしているのに授業では助動詞の活用だの名詞の解釈だのもっぱら文法を鵜呑《うの》みにつめこまされ、「もののあはれ」や「をかし」を味わうイマジネーションなど発達するわけがない。  百歩譲って、情緒の関与せぬ文法重視の授業がテストの採点には公平になるとしても、ならば古典のスタートにはなんで江戸時代の物語を持ってこないのだろう。近世文法のほうがずっとスムースに古典の世界になじんでゆけるだろうに。 「若者の活字離れ」「日本語の乱れ」とかいうことが嘆かれているが、白亜紀、ジュラ紀ならいざしらず、昔の高校生と今の高校生の根本的なセンスがそんなに違うとは思われない。周囲に存在するアイテムは変わっているとしても。それどころか今の高校生のほうが古典の世界、しかも平安宮廷文学の世界に近いセンスで生きているようにさえ感じる。彼らのあいだで流行《はや》っている音楽を聞いてみよ、「きみが好きだけどうまく言えない」「一人の夜に心が傷ついた」「こんなに好きでもあなたは冷たい」等々、すべてこれ恋愛している男女のグズグズ模様ではないか。古典に訳せば、 「来ぬ人を待つほの浦の夕なぎに        焼くや藻塩の身も焦がれつつ」  である。文法に神経質にならずに『源氏物語』を読ませたら、きっと高校生は嬉々《きき》として授業を受けると思うけどなあ。『雨月物語』をズリネタにしてくれると思うけどなあ。 コンビニエンス・ストア  はじめて入ったコンビニエンス・ストアは『セブン—イレブン』である。一九七九年。当時は十一時まで開いている店が、ほんとうにありがたかった。  学生の私は四畳半の部屋に住んでいた。風呂《ふろ》なし。北向き。駅から徒歩二十分。 「まあ、赤貧洗うがごとし、爪《つめ》に火を灯す、梅干しを見ながら唾《つば》でごはんを食べるような気の毒な状態だったのね」  と、今の学生には思われてしまうかもしれないが、当時の学生といえばこんなものであった。『サタデー・ナイト・フィーバー』し、インベーダー・ゲームに興じ、新発売のSONYウォークマンを頭につけていても、自室に電話のない学生はとてもたくさんいた。  新宿のツバキハウスでちょっとノロノロしてたら、帰宅後は風呂には入れず、汗だくの体のまま寝るしかなかったのである。  私はディスコには興味がなかったのでこのような目には遭わなかったが、生来が異様に頻繁に腹のすく女であった。夕方の五時ごろに学食で二百五十円のスパゲッティで夕食をすませ、図書館でレポートを作成し、帰宅して銭湯に行ったあと、うっかりおもしろい本など読みはじめると、腹がグーッと鳴ったところでやっと時間の経過に気づく。そういうときにかぎって米もパンも味噌《みそ》も切れている。居酒屋に行くには金がない。そこで、 「そうだ。駅前のあそこがあった」  と『セブン—イレブン』まで食パンを買いに二十分かけて出かけ、 「あー、十一時まで開いているとは」  と、まさしくコンビニエンスを実感したものだ。 「こんな便利な店が近くにありさえすれば冷蔵庫が要らない。冷蔵庫を本棚として利用したら四畳半の部屋がもっと広くなるのではないか」  引っ越しをするさいにも考えた。コンビニは当時そんなに数多くなかったため、私は『セブン—イレブン』本社に電話をかけ、区内チェーンの住所をリストアップして送ってくれと頼みまでした。 「�ぼくの部屋のでっかい冷蔵庫�っていうのどうですか?」  コピーの提案までした。  今ではありとあらゆるところにコンビニは存在する。しかも、十一時どころか二十四時間営業がふつうである。ああ、なんとコンビニとはありがたく、たのもしい奴《やつ》であろうか。生まれ育った土地から離れて一人で暮らしたことのない人々は、ここまで私がありがたがるのを笑うが、私にはコンビニが、最適な距離を保ちつつやさしくしてくれる足ながおじさんのようにさえ思われるのである。それはたぶん、「ひとりである」ということの感傷なのだろうけれども。  うちの田舎の村にも今年から『セブン—イレブン』ができた。まったく時代は一九九五年である。帰省したとき、村人がコンビニと呼ばず、「一晩中やってはるとこ」と呼んでいるのを聞いた。 幸せと健康  はじめて「あなたの幸せと健康を願って三分間お祈り」してもらった。  以前からときどき声をかけられたが、無視していた。  人々の幸せと健康を祈るのは、たいへんいい心がけである。私もそういう心がけで暮らしたいと思う。  だから、道を歩きながら、道行く人の背中をロンパリの目で熱っぽく見つめて、 「幸せになってね」  と、テレパシーを送っている。あの団体の人も、こうすればいいと思う。なにも引き止めて立ち止まらせて祈らずともよいだろうに。しかも、三分間だけ祈るなんてウルトラマンかカップ・ヌードルみたいなケチな祈り方しなくったって。テレパシーも送れないの? 霊能力が乏しい神様なわけ? 「あなたの幸せと健康を……」  と、近寄ってこられると、 「なんで私の方式で祈らないのですか?」  と、逆に質問したくなることもあった。事実、一度、質問したことがある。 「できるだけ近くで、向き合って祈らないと効果がないので」  という答えであった。そりゃ、ちょっとおかしかないですか、あーた。〜しないと〜ではない、などとゆーのは、ティファニーくれなきゃ愛してあげない、と言ってるようなもんでっせと、私が言うと、 「ぼくのおばあちゃんは、この宗教に入ってほんとうに足がなおったんです」  相手の信者は訴えてくる。 「でもね、あなた、あまり幸せそうに見えないよ。この運動やってる人って、幸せと健康を祈る、って言いながらも、例外なく不幸せそうなのはなんでなわけ? 洋服だってヘンだもん」 「高価な洋服を着ることが幸せでしょうか?」 「ううん。安い服でも幸せよ。でも着方がヘンなの。不幸せそうな着方してるんだもん」  そもそも「できるだけ近くで向かい合って祈らなければならない」のであれば、とにかく他人を立ち止まらせなくてはならないわけだから、たとえば、これは私個人の趣味なのだが、女性会員はボディコンを着ていてほしい。胸ぐりは広く開けて、スカートは短く、口紅はだんぜん赤色が好きだ。こういう女性が近寄ってきて、幸せを祈ってあげる、と言ってくれたら、即OKする。ぐぐっと接近して祈ってもらう。 「ラクウェル・ウェルチみたいな恰好《かつこう》をしたらいいと思うわ」  私は正直に自分の好みを伝えたのに、ちょっと古すぎたか、彼はラクウェル・ウェルチを知らなかった。立ち去って行った。  こういうことが一度あったこともあり、声をかけられても徹底的に無視していた。  しかし、人間は疲れることもある。人間を疲れさせる事柄は、えてして、重なってふりかかってくるものだ。重なってふりかかるから疲れるのかもしれないが。  週末の夕暮れどき。やたら他人が幸せに見えてしまうことがある。だれがテレパシーなんか送ってやるか、と思うことがある。  私は、とても疲れていた。そこへ、現れたのだ。 「あなたの幸せと健康を……」  痩《や》せた化粧っ気のない小柄な女性は、冷たい風に肩をすぼめて私の前に立っていた。 「うん」  私が応じたことに、彼女のほうが一瞬、意外そうな顔をした。 「いいよ、やって。やってください」 「……それでは、こうやって手を……」  小柄な彼女が私の前に差し出した手は、これがまた細くて小さい。 「盟主さま……」  目を閉じて祈祷《きとう》文を唱える小柄な彼女を、私は見下ろしていた。 「あなたのほうこそ幸せになってね」  やっぱりテレパシーを送る側になってしまう強い私だった。 ジーパン㈰  はじめて会ったときに、相手の女性がジーパンをはいていると、 「なんだ、ジーパンかよ」  と、がっかりする男性はわりに多い。 「ふしぎだ」  私は首をかしげる。ジーパンにがっかりするのなら、水着にもがっかりしなくてはならない。なぜなら、ジーパンと水着は体型がほとんどごまかせない衣服だからである。水着の女性を見ているのを、多くの男性は好むくせに、なぜジーパンではがっかりするのだろう。 「ジーパンとTシャツ、これほど女体を強調したセクシーな洋服はない」  と私は思っている。ジーパンとTシャツは男も着る。ということは女が着た場合、男との違いが如実に外に出る。乳房の膨らみ、ウエストのくびれ、ヒップのまるみ。それに加えて脚の長短まで露呈する。フリルや花模様やプリーツが体型をフォローしてくれない衣服、それがジーパン+Tシャツである。  それにこの組み合わせのさいには化粧をしっかりするわけにはいかない。ジーパン+Tシャツで化粧をしっかりすると、どんな美人も「おばはん」になってしまう。ましてや本当のおばさんの年齢の者がすると「ドおばはん」になる。美容整形をしている場合は年齢と無関係にもっと悲惨で、服のナチュラル感と顔のアーティフィシャル感の乖離《かいり》がまさしく壮絶だ。  そして、ジーパン+Tシャツは全身のバランスも要《かなめ》となるいでたちであるがゆえに、やたら髪を長くしているとバランス破壊が生じる。束ねるなり、一部をヘアピンでとめるなりしてバランス保持につとめねばならない。つまり、ジーパン+Tシャツというのはその人の体型を露呈させるのみならず、化粧や整形やヘアスタイルも助けてはくれず、|あの《ヽヽ》「髪をかきあげるしぐさ」も助けてはくれないという、 「ものすごく残酷なかっこう」  なわけである。 「日本の女のコは、日本で見ているとセクシーでかわいいのに、なぜ海外ではガキっぽくてブスなのか?」  という質問をガイジンからされたことがあるが、私はこれ、きっと海外旅行中はみんなジーパンをはいてるからだと思う。ごまかせなくなってるからだと。それくらい露骨で残酷で、でも、だからがっかりするのなら、同じように露骨で残酷な水着にもがっかりしないとヘンではないかと、それで私はふしぎなわけである。  男性に断言したい。ショートカットでジーパン+Tシャツで堂々と勝負できる女性が掛け値なしの美女である。ただしこれは、決して「いつもジーパン+Tシャツを着ている」という意味ではない。 「髪が長いのはめんどうくさいし、服に凝るのもめんどうくさい」  という、ただの「めんどくさがり屋」が女性はわりに多い。そうか、それでジーパンだとがっかりする男性がわりに多いのだね。 ジーパン㈪  はじめてジーパンをはいたのは中学二年のときだった。「青い三角定規」のうたう『太陽がくれた季節』が流行《はや》っていた。ジーパンにTシャツ、スニーカーという正統的着こなしのほか、中村雅俊のようにジーパンにゲタをはくのもかっこいいこととされていた時代である。 「ジーパンはそもそもJEANSがなまったもの。GパンではなくてJパンと言うべきなのに悲しいニッポン」  と「女学生の友」か「セブンティーン」かに書いてあったので、 「そうか。なるほど」  と思い、ジーンズと言おうとしたが、だれも賛同してくれないのでやめた。  はじめてのジーパンは近所のスーパーで買った。エドウィンとかビッグジョンとかそういう会社の品ではなかった。ごくオーソドックスな色あいの、ごくオーソドックスなストレートだった。はいた感想は、 「なんて、きゅうくつで動きにくいものなのだ!」  だった。断っておくが、べつに私がものすごくデブであったりしたわけではない。このさい自慢をしておくが、私の世代では特例的なほど脚も長かった。エー、ゴホン、ゴホン、裾《すそ》を切る必要がなかったほど。それでもきゅうくつだった。  ジーパンは若くて活動的な衣服の代表のようになっているが、きゅうくつだ、動きにくい、と感じている人はほんとうは多いと思う。とくに女性は。 「わたし、ジーパンは似合わないから」  と、そういう人は自分で自分をごまかしている。ごまかす必要なんかないぞ。きゅうくつだと感じるのは正しいんである。なぜならジーパンは女性の肉体には不向きな平面裁断なのだ。だから、意外に思うかもしれないが、着物の似合う女性はスリムのジーパンが似合う。「ミス・きもの」になるような人は同時に「ミス・スリムのジーンズ」にもなれる。よって逆も成り立つから、浅野温子はきっと着物が似合う。賭《か》けてもいい。  私は着物がまったく似合わない。呉服商に、 「うっ……。に、似合わなくもありませんよ」  と口ごもらせたほど似合わない。衣服というのは顔の印象で似合う、似合わないが決定されるものではなく、骨組みと体型が決定するものなのである。骨の太い私はほんとうに着物が似合わず、ジーパンもきゅうくつだった。当時のジーパンというのは、ぴちぴちに細身の、股上《またうえ》のうんと短いものを、太いベルトでしめてはく、という着方しかなかったのである。 「ああ、なんて保守的で封建的で非活動的で息苦しい服なんだ」  そう思いながら、それでも無理してジーパンをはいていたティーンのころ。 「ジーパンとバージンは似てる(字面が)」  と、なぜか気づき、なぜかすごく納得したものである。 ジーパン㈫  はじめてジーパンに気を許せたのは大学生になってからである。中・高生のころ、 「なんてきゅうくつで非活動的な衣服だ」  と思っていたジーパンに、なぜリラックスできるようになったか。それは大学生には制服がなかったからである。朝、起きるたびに着るべき洋服を考えねばならない、これのなんというたいへんさ! 「やっと制服から解放されて、これからは自由におしゃれができるわ」  という心理は、私には皆無だった。 「ええい! めんどうくさいっ! 制服があればいいのに」  毎朝、こう思っていた。 「ああ、もーれつしごき教室のような大学に通いたい」  こうも思っていた。「もーれつしごき教室」というのは関西の深夜テレビ番組で、桂三枝が先生役。生徒役のお笑いタレントは皆、ジャージ上下に運動靴をはいていた。私が大学生のころというのは、かのハマトラ全盛期。ウエッジ・シューズ(7センチもあろうかという馬糞《ばふん》のようなヒールの靴)と膝丈《ひざたけ》の巻きスカート。髪はレイヤーカットにパールピンクの口紅。こんなふうなスタイルを級友の90%がしていた。今から思えばこれが制服のようなものだったが、私はこれがイヤだった。セーラー服を着ていたころより靴はスニーカーだったので、どうあってもスニーカーをはきたかった。おしゃれのポリシーというより、 「足が痛いのはぜったいにいや!」  という、ただそれだけの理由である。なにせ趣味は歩くこと。二時間でも四時間でも歩いていたいのに、馬糞シューズでは足が痛くなるではないか。 「ファッションの秘訣《ひけつ》は、洋服に靴を合わせるのではなく、靴に洋服を合わせること」  どこかでこの原理を読み、さっそく踏襲することにした。スニーカーに合う、きゅうくつではない洋服は? 「そうだ。オーバーオールだ」  ぶかぶかのオーバーオールなら身体をしめつけない。ブラジャーもしなくていい。我ながらなんという名案だ。そう思い、以後、大学生活の四年間をほとんどオーバーオールで過ごした。おかげで家計に占める被服費の割合はものすごく低くてすんだ。オーバーオールを二着、トレーナーかワークシャツを三着ほどそろえておけば、あとは何足かのソックスだけで、これらを洗濯しながら交代で着れば、それで済む。 「お金がたりないので……」  乞《こ》えば親は、たぶん金をくれただろう。しかし、十五歳を越したら自分がゲットできる金額のなかで工夫して自分のライフスタイルをエンジョイするのが、それこそが自由なたのしさだと思うのだけれど、そう思う女より、工夫しないで他者に頼る女の人のほうが、 「わあ、お嬢様なんだ。いいなあ、すてきだなあ、知的だなあ」  と受け入れられて好感を抱かれるのだと学んだのは、大学を卒業してからであった。 ジーパン㈬  はじめてジーパンをはいたとき、女性はガーンと知らされる。 「なんて、私のお尻《しり》は……!」  と。ほっそりしたタイプだろうがぽっちゃりしたタイプだろうが、病気の域に属していない限り、我が臀部《でんぶ》について何らかのショックを受ける。……はずである。ジーパンほど臀部を強調する衣服はほかにない。スパッツやTバックといった、靴下や下着の類に属するものを除いては。 「へー、そーかなー?」  男性は思うかもしれない。大手下着メーカーのアンケートによると『ヒップラインが一番気になるのはどういう服装のときですか?』という質問に対し、女性は『ジーパンをはいたとき』が第一位。かたや男性は、質問を聞いていないのか理解できなかったのか『ミニスカートのとき』であった。そりゃあんた、パンティが一番気になるとき、とまちがえてるよ。  で、はじめてジーパンを試着して、自分の臀部を見た女性は、その後は二手に分かれる。㈰、自分にはジーパンは似合わないと思い、ぜったいはかないと決める。㈪、自分に合うサイズやデザインを探して工夫する。  私は㈪のほうで、ぶかぶかのオーバーオールから入り、そのうち分離型へと移行した。なんとしてでもジーパンをはきこなしたかった。その理由はド近眼だったためである。 「近眼なのがどうジーパンと関係が?」  と首を傾げる人もいるであろう。二進法的説明をする。近眼か否か→→近眼→→眼鏡かコンタクトレンズか→→眼鏡(粘膜過敏症のため長時間のコンタクトレンズ装着不可能)→→化粧をするか否か→→しない(皮膚過敏症でファンデ、おしろいが塗れない)→→化粧せずに眼鏡をしている人に似合うのは、いわゆる女らしい服装かユニセックスな服装か→→ユニセックス(眼鏡をかけて女らしい服装をするとすごくオバサンっぽくなる)→→ならば? 「それでジーパンにした」  のである。我が臀部へのショックはひとかたならぬものがあったが、それでもたゆまぬ努力で私は自分の巨大臀部でも、 「はいててとってもラク〜」  なジーパンを探し求めた。そしてついにジーパン道の真理を発見した。それは、 「まず、ウエストのサイズ表示は断固無視せよ。なんの当てにもならない上にベルトや縫い直しでいくらでも調節可。次、店員が寄ってこない店で十着でも二十着でも試着せよ。試着室内では、立っているだけでなくしゃがんでもみよ、ひざを上げてもみよ、あぐらもかいてみよ、きゅうくつな物は即却下せよ。こうして選んだから、あとは自分の尻がどんなに大きかろうが、女性の特権であるウエストのくびれを生かして堂々とはけ」  である。ジーパンとはそもそも作業着なのだから、きゅうくつでは無意味だと思うし「ビンテージ物」などとバカ高いのをありがたがるのもへんだと思う。 下着買い取り業  はじめて「下着買い取り業」という存在があるのを知った。ブルセラとも呼ばれる。  高田馬場のマンションの一室にあるこの店は使用済のパンティを五千円だか一万円だかで買い取ってくれるのだそうで、おこづかい欲しさの女子高校生と、需要と供給がぴったりマッチしているらしい。 「うーん、迷うところだ」  下着道楽のためにタンスに入りきらなくなった品々を眺め、私は悩んだ。 ㈰安易な売春精神に通じる|さもし《ヽヽヽ》さ ㈪物はリサイクルして地球にやさしく  この二点の狭間で悩んだ。しかし、すぐに答えは出た。自分にはパンティを売る商品価値がないのである。店は「ぴちぴちギャル」のパンティが、それも使用済のものが欲しいわけだから、私の、それも未使用のものでは意味がないのである。 「しかたがない。今日から一日一枚ずつはいて捨てていこう」  パンティについてはクリアーした。問題はブラジャーである。いくら親しい友人だからといって、 「ねえ、ブラジャー欲しくない?」  とは言いにくい。それに靴とブラジャーほど人によってフィット感がちがうものもない。読者プレゼントにもできない。 「し、し、しかたがない……」  涙ぐみながら、私はブラジャーを捨てた。十五年前に買ったポロシャツでも|ほころび《ヽヽヽヽ》を縫いながら大事に使う、戦前の倫理観に満ち溢《あふ》れた私には、パンティのように小さいものならいざしらず、ブラジャーのように縫製に手間のかかった品をポイと捨てることに、ものすごくものすごく罪悪感を持ってしまうのだ。 「東京都の住宅事情さえ改善されていればこんなことをせずにすんだものを。敗戦のときGHQはどうして住宅整備をさせなかったのか、ぶつぶつ」  きっと自分たちの国が広いからそういう発想が浮かばなかったのだ。バカヤロめ、などと、考えをブラジャーから逸らせ、忘れることにした。  それにしても、使用済パンティを欲しがる客の心理がよくわからない。この店の物にかぎらず、洗濯物を盗んだりする人の心理も不可解だ。  パンティ(新品)というモノに執着するフェティシズムならまだ理解できる。だが、こんなニールセン調査みたいなルートで入手したパンティになんでまたよろこびを見出せるのか? もし自分が男でこんなニールセン・パンティを入手したとしても、 「ううむ。きっとすごいブスな女子高校生がはいていたにちがいない。夏ミカンのような肌の人妻がはいていたにちがいない」  と、悲観的な想像をめぐらすと思う。もしかしたら使用済パンティで興奮できる男性というのはミス・ミナコ・サイトウもびっくりのポジティヴ・シンキングの持ち主かも。 シックス・ナイン  はじめてシックス・ナインという体位の存在を知ったのは、十九歳のときである。  祥伝社発行の「微笑」で知った。この雑誌は光文社の「女性自身」や小学館の「女性セブン」などとよく似た装丁の週刊誌で、いわゆるゴシップ雑誌だと分類されているのだけれど、後発なぶん他誌にはない「売り」があった。なにか。エッチさが勝る。これである。読者のセックス告白記事や体位のグラビアなどが他誌より過激なので、「女性セブン」と「週刊女性」は立ち読みできるが「微笑」は買って帰って室内でコソコソと読まなくてはならないハメになる雑誌だった。  出版業界に身を置く現在となっては、祥伝社の手法はうまいなあと感心するが、当時は高校を卒業したばかりの十九歳なので、ただコソコソと読んだだけである。そこでシックス・ナインという体位の写真を見たのだ。 「いやだ!」  と、思った。 「こんなこと、ぜったいしたくない!」  と、思った。  で、少しだけ、私のおいたちに触れると、私はとにかく想像を絶する厳格な軍国主義的家庭に生まれ、そのためか病的に潔癖性となり、他人の皮膚に接触するのを極端に恐れる性格の人間に育った。これは現在も続行中だが、十九歳のときにいたっては現在以上にかたくなであった。  だが、私がシックス・ナインの写真を見て拒絶反応をおこしたのは、こうした性格によるものでは、決して、ない。病的な潔癖性と愛欲に溺《おぼ》れることへの憧《あこが》れと、じつはこの両者、表裏一体なのである。だからこそ「微笑」をコソコソ読んでいたのだ。  では、なぜ私はシックス・ナインがいやだと思ったか。それは、 「なんていやらしく|ない《ヽヽ》体位だ!」  と、思ったからである。  セックスという行為は、本来の目的であった「子孫を増やす」ことから離脱して、たんなる悦楽と化した。他の人はどうかは知らないが、すくなくとも私は十代当時から思っていた。  悦楽の深さは合理性に反比例する。つまり不合理であればあるほど悦楽度は増す、と。強姦《ごうかん》、これは、犯罪における不合理性である。不合理なるがゆえに、おそらく多くの人間が、一度は興味を持つ。実行するしない、実行してみたいみたくない、は別として。興味という点で。ただ、まっとうな思考能力と感覚のある者ならば、犯罪における不合理性が、ものすごく幼稚で刺激のないものだとすぐにわかってしまう。なぜなら、そこには精神の征服行為が皆無なので、脳が刺激されないのである。よって、強姦犯人とは、幼稚な行為でも脳を刺激され得る幼稚な人間であるという犯罪心理学が成立する。  幼児から大人へと成長した者なら、やはりもっと高度な不合理性を求めて悦楽に身をゆだねたいと感じるようになる。そこでSMクラブに行ってみたりもする(=興味を持つ)わけだが、ビジネスな疑似不合理にすぐにまた物足りなくなってしまう。そして、結局、 「好きだよ」 「私も」  という、ごくふつうの男女の相互引力、すなわち恋愛こそが、もっとも不合理なものだという真理を悟るにいたる。  恋愛の悦楽、それは最たる不合理性にある。それなのに、舐《な》めるのと吸うのとを同時に行ってしまいましょうという、このシックス・ナインの合理性のせちがらさ! まるで「時間節約ネ」とでも言いたげな、いやらしさのかけらだにない体位!  舐めるのと吸うのとは、別々に、不合理に、時間をかけて行ってくれと、私は全国のカップルに言いたい。残念ながら目下、私に恋人はいないので、将来所持したらこの掲載頁を読んでもらう。 知っている人が殺された  はじめて知っている人が殺されたのは二十五歳のときのことだ。 「東京湾に浮かんでいた全裸殺人死体の身元が……」  TVのニュースでアナウンサーが読みあげるのをボンヤリ聞いていた私は、≪殺された〇〇〇子さん≫というテロップとともに出た写真を見てびっくりした。二、三度しか口をきいたことのない、しかも挨拶《あいさつ》程度でしかない知り合いだったのだが、お気の毒なことであった。たしか彼女は五十八歳(被殺害時)。良家のお嬢様に生まれて女性実業家として手腕を発揮。ずっと独身であったのが、三十だか三十五だかの男に、ワイドショーの表現を用いるならば「貢いで」殺されたのだという。 「なんでまた、そんな男に……」  当時の私は思ったけれど、現在では、なんでまた、という気持ちよりも、 「かわいそうに……」  という気持ちのほうがずっと強い。恵まれない人へのボランティア活動もしている人だった。ちらりとだけ聞いた彼女の、長い孤独な私生活は、 「愛され下手な人であったのかもしれない」  と、憶測させる。女性誌や「生き方エッセイ」の類の本には、よく、 「愛されるよりも愛する女性になろうね」  と奨励してあるが、そんなことをしたら相手に疎まれるような気がする。深く愛するということは相手に対してほとんどなにも求めなくなるので、相手は愛されていることがわからなくなる。そのうち「なんだかこの人、メイワク」であったり「自分なしでもやっていける人だ」になる。 「愛して、愛して、もっと愛して」「指輪買って、買って」「キイッ、今よそみして別な女を見たわねッ、キイッ(ひっかく)こういう志向の女性のほうが相手にすれば素直であったり「ったく、しょうがねえなあ」であったりする。  ところが生来がこの志向でない人が、この志向の人の真似をすると、なにぶん付け焼き刃なものだから、とにかく可愛《かわい》げがない。相手にはただのヒステリーに映り、あげくは最悪の場合「ここらが潮どき」と殺害されて東京湾に捨てられてしまう。 「なによ、あなたは私の体が目当てだったのね」  などと男性に対して怒る女性がときどきいる。傲慢《ごうまん》な人だ。目当てにしてもらえる肉体を所有しているなんてすごいことではないか。うらやましい。しかし、こう言って怒ることのできる志向の女性のほうが男にとっては色気があるのだと思う。 「あなたは私の|金《ヽ》が目当てだったのね」  殺されながらこんなことを悟らなくてはならなかったのはどんなにか悲しかったことだろう。  体が目当てで寄ってくる男もいないが、金目当てで寄ってくる男もいないのが、資産のない私の幸運なのかもしれない。〇〇〇子さんは天国で幸せなシルバー・ロマンスに恵まれていることをお祈りします。 自分の本  はじめて自分の本を手にとっている人を書店で見たのは一九九一年であった。そしてこの一回以外、ほかにはない。  世間の人のほとんどは小説を読まないし、読む人のほとんども、私の本は読まない。イヤミのように聞こえるかもしれないが、確率統計学的にみて文芸ジャンルの本を読む人口は総人口のごく一部で、その一部を内訳すれば一著者が獲得する読者の数はさらに少ないと言っている。  ベストセラーになる本(例・『脳内革命』など)というのは、ひごろは本を読まない人も買う本のことで、ベストセラーになる文芸本(例・『ソフィーの世界』など)というのは、ひごろは文芸本を読まない人も買う文芸本のことである。後者のほうが「ベストセラーになる確率」の難度が高い(単純計算で)のが現代経済社会である。いっときは、 「なぜ今、松本人志の本が人々に読まれるのか?」  というような考察があちこちの雑誌でされていたが、なぜそんな考察をするのか私にはわからない。彼はTVに出ている人間だから、その著書は、したがって売れるのである。松本人志の本の内容はすばらしかったであろう、おもしろかったであろう。だが、彼がTVに出ている人間でなければ同じ部数は売れなかったはずである。  むろん、著書がベストセラーになるためにはTVに出ているだけではだめで、TVで高い視聴率がとれる人間でないとならない。となれば木村拓哉が本を出せば、もちろん売れる。私には彼が本を出した場合の装丁がもう目に浮かぶ。超地味(しぶい、とも表現するが)な、題名と著者名だけが浮かびあがるような装丁。題名も『日常』とか『普通の日々』とか『夜』とか、これも超地味。あまたのファンはもちろん、 「ほほう、これが人気のキムタクっちゅうやつの本か」と思う人間も買う→→ベストセラー。ならば本を売るためにはTVに出ればいいことになる。だが、TVに出してくれと言ってもTVは出してくれるものではないし、先述のように、出たからといって「視聴率のとれる人間」に必ずなれるわけではないし、それに想像するに、文章を書く人間の九割がTVに出ることはきらい(不向き)である。  そういうわけで私の本を手にとっている人に書店で遭遇するということは、私がベストセラーを出す確率に匹敵するくらい希有なことである。  心臓が早鐘を打つあまり、爆発するのではないかと思った。迷って迷い、迷った果てに、私は彼女に声をかけ、 「作者ですがぜひ買ってください」  と頼んだ。彼女は不審そうな顔もせず驚きもせず、いたって気のなさそうな表情で、 「どんな小説なんですか?」  と訊《き》いた。どんな話かと訊かれても原稿用紙350枚を要約する機転は、私にはなかった。そして彼女は結局、買ってくださらなかった。  あれ以来、私は願う。読まなくていいから買ってください、余力があったら読んでください、と。 就職試験  はじめて就職試験に関与した。書類選考に立ち合ったのである。 「なになに就職?」 「書類選考?」  学生読者にとってはパッと目をひく語句が並んでいることだろう。目をひいていいぞ。とくに読書をするような学生諸君にとっては関心度が高いであろう、出版社の就職試験なのだから。  しかし、これから書く内容を考えると、どこの出版社かは口が裂けても言えない。某出版社。それしか言えん。私が本を出してない会社。ここまで。  その某出版社が出している某雑誌の編集長と、ある日、私は会った。個人的に会った。個人的に会って酒を飲み、私は日ごろの超個人的なグチをえんえんと訴えた。えんえんと彼は聞いてくれ、二人ともえんえんと酒を飲んだ。店を出たあと、我が家(我が室)でまた飲んだ。茶も飲んだ。夜はいっそう更けた。  と、不意に彼は鞄《かばん》からたくさんの紙を取り出した。ものすっごくたくさんの紙を。 「ああ、こんなに作文を読まなくてはならない」  紙の束は就職試験の作文および自己紹介書であった。 「俺《おれ》、もう読むの疲れちゃった。姫野さん、選んで」  とんでもないことを言いだす。だが、私も酔っぱらっているから、 「OK。まかしてちょーよ」  と、このとおりに言ったわけではないが、つまりいくらなんでもこんなセンスの悪い語彙《ごい》でまがりなりにも売れてないなりにも小説家たるもの会話はしないが、ノリとしてはこのとおりに、私は純真な青少年が一生懸命書いたであろう作文を、非道にもインド綿マットに寝っころがりながら、 「フンフン、な〜るほど、ははん」  と、熟慮することなく�あたしって猫のように気まぐれなの�と言いたがるイヤな女のように読んだ。  このような女になってみたのは、先述のグチも関連している。結局、この世は�猫のように気まぐれでサティを聞きながらしゃれた写真集をぱらぱら繰っているような女�が勝つのだという諦念《ていねん》とヤケが全身にみなぎっていたのである。 「はん。好きな作家、サリンジャーだって。こんな奴《やつ》、ボツ」「好きなことばが�一期一会《いちごいちえ》�? ははーん『フォレスト・ガンプ』を見たんだな。単純な奴、ボツ」「あ、この人、怖い顔。こういう怖い顔して好きなことばが�虎穴に入らずんば虎子を得ず�か。怖いなあ。おもしろいからパス」  わたしは選んだ。驚いたことに編集長は私の選んだとおりに紙を区分けしていた。  人生の大事な岐路など、このように配慮のない他人によって決定されるのだ、がははは。しかし、その配慮のない他人も、やっぱり別の配慮のない他人によって決定されていて、若者よ、これが人生の醍醐味《だいごみ》なのだ。大志を抱けよ。 女子プロレス  はじめて女子プロレスを見に行った。神取忍さんがよかった。遠藤美月ちゃんに一目惚《ぼ》れした。  そもそも私が女子プロに興味を持ったのは大学生のころである。TVのトーク番組にデビル雅美がゲストで出ていた。そこへ彼女のライバルとされているレスラーが飛び入りで現れ「おいデビル、油断してるなよ」みたいなことを言った。  ライバル・レスラーの姿は画面には出ず、ひとこと言っただけでスタジオから出ていったのだが、私が胸を打たれたのは、それまでなごやかに話していたデビル雅美がライバル・レスラーの登場と悪態を受けて「なにお、貴様こそ」という表情をし、「かかってこい」というポーズをしたことである。一瞬のうちに彼女はそうした。清流。そのことばがぴったりであった。  あえて極端な表現をするが、プロレスは滑稽《こつけい》な見世物である。その滑稽さを愛し、その見せ方のパワーと技術を尊敬するのは、多くの場合、男である。女の多くは滑稽を拒否する。ましてや滑稽を演じて見せるなどキュリー夫人級に希有である。  それを女であるデビル雅美が、試合中に見せるだけでも頭が下がるのに、なごやかなトーク番組中に、たとえあらかじめライバル・レスラーが飛び入りしますよと教えられていたとしても、臆《おく》することなく自分が担っている役を、やってのけたのである。渓谷の川の上流のように身の引きしまる思いを、私はTVの前で感じたのだった。  以来私は女子プロが好きである。試合を見に行き、ますます好きになった。女子プロそのものが好きというより女子プロを行うような女性の|感覚のベクトルの方向《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を愛する。タカラヅカも、だから私は好きだ。お客様のことを忘れていない。といってお客様だけが存在するわけでもない。このベクトルは恥を知ることを知っている。  ところで、チヅコさんという知人(35・家事手伝い)がいて、あれは芝居というのか踊りというのか、とにかく一人で舞台で何かする。「桜の木の下には死体があるよ」「ほらほら猫が今夜も狂う」とかいうような、すでに百万回も誰かが書いたような詩だかセリフだかを言いながら薄い服で踊る(しかもヘタ)。  知人なのでつきあいでチケットを買うんだが、本音はもう「かんべんしてくれ〜」である。クソおもしろくないどころの騒ぎではない。ほとんど拷問である。シリアスが嫌いというのではない。シリアスな部分というのは大切なものだと私も思う。しかし、チヅコさん型の見世物の場合、頭にお客様の存在がまったくないのである。  何が恥かを知ろうとしない。その上、舞台の後には「新宿の地下にある壁に落書きのいっぱいしてある柿の種しかつまみのない黒い帽子をかぶった客がとても多い酒場」で芸術論を聞かされなくてはならないオマケつき。  来週、私はこの激務をこなさなくてはならない。いつ忍耐力がプツンと切れてアバランシュ・バックブリーカーを喰《く》らわせてしまうことか。自分がイーグル沢井と化す日はものすごく近い気がする……。 スーパーマーケット  はじめてスーパーマーケットに行ったのは昭和四十年である。六歳だった。  コマストア。それは片田舎の町の住人の目を見張らせる「建造物」だった。通りに面する壁はガラス。屋根はゆるやかな曲線。オレンジ色を基調にした内装。おびただしい蛍光灯。五列に並ぶレジスター台。  平成六年末の今からすれば、それは、やぼったくてアカぬけしない、一階建ての小規模なスーパーマーケットだろう。しかし、当時の、しかも田舎町にしてみれば、 「スーパーちゅうもんができたそうやで」 「スーパーちゅうもんは、さいしょにカゴに品物を入れて、あとでまとめてレジで支払うそうや」 「カネタツもタナベもこれで大痛手やろうな」  町中の老若男女の話題になる画期的な出来事だった。ちなみにカネタツとタナベというのは、それまで町にあった疑似スーパーというか、よろずやというか、ちょっとした雑貨もそろえてある食料品店名である。 「あんた、もうスーパーへ行った? うちなんか昨日、行ったんやで」 「へえ、ほんま。うちはお母さんが土曜日になったら連れてってくれはるねん」  小学校の教室でもスーパーのことは話題にのぼる。私もはやくスーパーに行ってみたかった。そうした矢先、近所のお姉さんが買い物に行くというのでいっしょに連れていってもらった。 「これがスーパーか」  私は感慨深く店内を見渡し、お姉さんのあとについて陳列棚に並んだ品物を見たものだ。グリコアーモンドチョコも、シスコーンも京えくぼ(注・サラダせんべい)も、それまでカネタツやタナベで見かけた品物と同じものであるはずなのに、なんだかとても新しいお菓子に思われる。そして、カネタツやタナベはもちろん、田舎町にある個人商店にただよう「ぬくもり」がないところが、私の肩や背中を軽い気分にさせた。 「一つだけしか買わへんのに、いちいちレジで並ばなあかんのはしんきくさいわあ」 「パックに入ったるさかい、魚なんかはようわからへんなあ」  欠点もいくつか挙がったが、なんだかんだいってもコマストアは町に浸透していった。 「ヒドラ、コマストアに現る!」  そんな広告の出た日には子供たちがいっせいにコマストアに行った。ウルトラマンの怪獣のぬいぐるみをかぶった店員が、 「ふう。ああ、暑い、暑い。これかぶってると暑うてかなわへんわ」  と、奥の控室で汗を拭《ふ》いている姿も、なんというか「それなりに風情がある」ように私には感じられた。  ♪コーマ、コーマ、コーマスートアー。買い物するならコマストア。なんでもそろってステキなお店ー。わーたしーの買い物、いーつもここ、コーマ、コーマ、コーマースートーアー♪  これがコマストアのテーマソングだったが、二年後、この店は西友ストアに吸収され、そのときの広告の文面は、 「コマストアは結婚します! 西友ストアとこれからは呼んでください」  であった。花嫁と花婿のイラストが二色で描いてあった。 スウェーデン㈰  はじめてスウェーデンに旅行した。小学生のときからの憧《あこが》れの国だったのだ。憧れの国。そう、こんな陳腐でノン・ポリシーな表現がぴったりの感覚だった。ニルスのふしぎな旅。名探偵カッレくん。やかまし村の子供たち。私は好奇心の強い女。純愛日記。マイライフ・アズ・ア・ドッグ……憧れは私の胸に夜降る雪のごとくに静かに積もって冷凍されていた。 「よし、本当にスウェーデンに行こう!」  そう思ったのは、今年になって何とか金に潤いが出たからである。去年まで私は年収二百万円台だった。金持ち独身たちが、昨日フランス、今日イタリアと嬉々《きき》としているのを尻目《しりめ》に実に質素に暮らしていたのである。 「もうギャルではないが今ならまだまにあう。でないとあんな遠くて寒そうな国、バアちゃんになったら行けなくなる」  そう思い、即、旅行代理店に行ったものの、私は一人旅である。その上、海外慣れしているどころか飛行機の乗り方や空港手続きもよくわからない。英語もほとんどしゃべれない。スウェーデン語はまったくわからない。  折り紙付きの方向音痴。目も悪い。声も低い。性格も暗い。顔も大きい。体重も重い。運転できず引き算も遅い。恋人もいない。クレジットカードもない。どうしよう。私ったら悪いとこばっかりだわ、とイモヅル式に悲観的になってしまう。  そこへ、 「お一人様ですと割増料金十万円になるんですよね。お一人でいいんですか?」  と、代理店員のつっこみが入った。 「はあ。旅行は必ず一人で……」 「ほほう。そりゃまたどうして?」  どうしてって、旅行は一人で行かないと濃度が薄まってしまうではないか。不慣れなこと、わからないことを恥かいて失敗するから心に濃くアルバムされるのではないか。二人より三人、三人より五人……と人数が増えるほどアルバム濃度は下がるのだ。団体旅行にいたっては修学旅行がいい例で何にも覚えてない。 「無謀で危険な冒険をするつもりは全くないんですが一人のほうが充実するような」 「そうですね。海外旅行後に絶交したって友人グループがよくいらっしゃいますよ。北欧は治安はいいから大丈夫ですよ」  とくに食べ物に好き嫌いのない人はスウェーデン語のメニューが読めなくても大丈夫だし、と代理店員。おお、そうだったか。私にはこの強みがあった。  食べ物に好き嫌いなし。便秘なし。腋毛《わきげ》もないし、腋臭《わきが》もなし。虫歯もなく、いつも時差ボケのような生活だから時差ボケもない。なんだ私っていいとこばっかり、とイモヅル式に楽観的になる。スウェーデンまでのチケットを申し込むだけで大きく感情を振幅させてしまった私であった。 スウェーデン㈪  はじめてストックホルムという街の名を知ったのは小学校一年生のときであった。わが家の階段の壁にカレンダーが貼《は》ってあったのだ。十二枚つづりで、一月だったらロンドンはビッグ・ベン、二月だったらパリは凱旋門《がいせんもん》……みたいなカレンダーであった。これが貼られたときにすぐ、 「八月は? 八月はどこだろう?」  と、私はどきどきしながらたしかめた。自分が八月生まれだったからである。八枚目をめくると、近代的な道路を人々が歩いている。ただたんに、人々が商店街を、歩いている、写真だった。他の月がいかにも「観光写真」というかんじなのに、八月だけどうということもない。写真の下には、 「ストックホルム(スウェーデン)」と記されている。なんとなく肩すかしをくらったような気がしたが、それでも子供同士で、 「なあなあ、あんたは世界で一番行きたい国はどこ? うちはアメリカや」 「そやなあ、うちはイタリアや」  などといった会話になると、私はスウェーデンだと答えていた。どうせ、他の子供の一番の国を選んだ理由も私と似たようなものだったに決まっている。叔父さんからおみやげをもらったからアメリカとか、スパゲッティのCMがおもしろいからイタリアとか、子供はそんなもんである。  そんなもんのまま、たまたま八月の写真がストックホルムだったがために、私は高学年になって社会の時間に白地図を塗るときも、スウェーデンのところはピンクの色鉛筆を使用してていねいに塗っていた。なんでピンクかというと、女の人ならすぐわかると思うが、たいてい女の子供はピンクの色鉛筆が一番大事である。男の子供がピンクを使ったりすると「おんないろを使ってやがる」という主旨の文句をみんなから言われなければならなかった。ピンクが好きな男の子供もいただろうに気の毒な。  オオサワキヨシくん(仮名)という子がいて、その子がピンクを使いそうだった。成績はよかったが嫌われていた。運動はぜんぜんダメで、世界の国の首都と国旗がみんな言えると自慢するようなタイプの子だ。  ある日、先生が愛国心について話をしてくれた。といっても相手が小学生なので、一日一日を有意義に送りましょう、みんな仲良くしましょうといった話だった。児童はおごそかな顔つきで聞いていた。先生が話の最後にほほえんで、 「みんなかて日本に生まれたんや。ほかの国に生まれたかったなんて思わへんやろ」  と言うと、静まりかえった教室でオオサワくんは言ったのだ。 「ううん。ノルウェーに生まれたかった」  と。なぜ? なぜノルウェー? 突如として登場したこの国名に、全員がまごつくと同時にシラけた。とりわけ私は、嫌いなオオサワくんがスウェーデンの隣の国を好いていることに|あせり《ヽヽヽ》を感じていた。きっと彼の誕生月のカレンダーがノルウェーだったのだろう。今から思えば……。 スウェーデン㈫  はじめてANAに乗る前、空港の鏡に映った私の顔は暗く汚かった。仕事のため50時間起きつづけていた顔である。髪はふり乱れ、着ているものはツギのあるトレーナーにスウェット。パスポートを出す手は疲労のためぶるぶるしている。成田内でのかっぱらい増加と聞いていたので注意していたが、この外見では私のほうが人々から注意されていたかもしれない。とにかくフラフラだった。席に着くとホッとしたのか救命具の説明が終わらないうちに眠ってしまった。さすがによく寝た。目を開いたときテーブルには朝食がセットされている。 「いつのまに配ってくれたのだろう?」  と思っているとストックホルムにまもなく着くとのアナウンスが入った。スウェットという衣服のラクさもあって私は10時間こんこんと眠っていたのである。これはけっこうショックだった。  ♪いつか大きくなったらと/夢見てた幼い日/北の果てには森と湖の国があるという/遠い遠い海を越え/高い高い山の向こうに白夜の国はあるんだよ♪  私にとってストックホルムとはこういう場所であったのに、こういう旅情をまったく味わう暇もなく「救命具の説明」の次がすぐ「到着」になってしまったではないか。日本で唯一ノンストップのストックホルム便を出しているのがANAであり、だからこそこの会社を選択したのだが、 「何だかありがたみがないような……」  と思ってしまうのが人間のわがままさ。  寝起きの不機嫌さでガラガラと鞄《かばん》をひきずって税関を出ると、だがしかし、そこはまばゆいばかりのプラチナの光であった。プラチナの光。金《きん》じゃない。プラチナ。それは髪の毛が放つ光。そう、出迎えに来ている数多《あまた》スウェーデン人の髪の色がいっせいにプラチナ光線を放っているのだ。  ♪ティモテ、マイルド〜♪  思わず歌わずにはおれない光だった。どきどきしながら円をクローネに替えてくれるカウンターに行くと、今度は脈拍がどくどくしはじめた。 「このカウンター嬢、彫刻では?」  その美しさは筆舌に尽くしがたい。透けるように白い肌、なんてものじゃない。本当に肌が透けているのだ。白金の睫毛《まつげ》に透ける肌、灰色の瞳《ひとみ》。薔薇《ばら》色の唇。まさしく白夜の妖精《ようせい》のようなのだ。欧米人をはじめて間近にしたわけではないにもかかわらず何という美しさかと感動して、失礼とはわかりつつ、ぢーっと見惚《みと》れてしまった。この人が特別なのかもしれない、と落ち着こうとしたが大失敗。空港を出て繁華街を歩くと、さらに美人がうようよ、うじゃうじゃ。もう美人の大群、カタマリ、襲来である。顔がきれいなだけでなく背も高くグラマー。片やこっちときたら成田でもきわだつような汚い格好も手伝って、 「劣等民族だわ、私」  と思ってしまう。北欧の女性は世界一美しいという説は本当である。ANAがあったら入りたいくらいに。 スウェーデン㈬  はじめてストックホルムで食べたものはマクドナルドのビッグマックである。  空港からホテルへ到着。ちょっと休憩して荷物を整理して街へ出たところ、あちこちの店で掃除をはじめている。 「もう閉店するのか。さすがは福祉国家、労働時間は9to5ときっちり定められているのだな」  などと思いかけたが、いくらなんでも妙なので時計を見ると九時である。 「おお!」  私は感激した。そのときの空といえば、ブルーハワイのカクテルにチャコール・グレーのシフォンをかぶせて後方からライトで照らしたような色である。要するにまだ明るいのである。 「白夜の国なのだ」  頭ではわかってはいたことだけれど、空腹さと照らし合わせて真に体験したのだ。  九時を過ぎて開いているのは「お酒を飲むのが中心な店」である。到着するやいなやそういう店に入るのは、しかも女一人で入るのは危ない。ガイドブックを見てみようか。いや、そんなことをしていたらよけいに危ない。物取りのかっこうの的だ。何言ってる、黒髪黒目胴長短足偏平胸ですでに目立っているではないか、イエロー・キャブがいるぜ、と囁《ささや》きあわれているかもしれない。 「フリーセックス! クリスチナ・リンドベルイ! 私は好奇心の強い女! ブルー篇、イエロー篇!」  白夜の国、から急変して、スウェーデンにかかる別の枕詞《まくらことば》が次々と頭に浮かぶ。夜の歌舞伎町を一人で歩いていてもナンパされない本国での事実はすっかり忘れている。 「一握りの金持ちのために日本人全員が金持ちだと思われて迷惑な話だ」  腹もたちはじめる。いきなりナイフをつきつけられたらどうしよう。 「GNPが高くても貧乏人もいるのだ、と即座に早口で英語で言えるようにしておかなくては」  Although GNP is high……いや、こういう言い方は受験英語だ。ここはまず、There are many poor people と、もってくるべきだろうな。待てよ、まず I am poor のほうかな。ああ、中・高・大と十年間も英語教育を受けたというのに。 「なぜ英語力がないのだろう」  日本の教育のあり方に疑問を抱いたりもする。  異国の夜の女一人、心おぼつかなく背を丸め、とぼとぼと石の通りを歩くとき、そんなとき目に飛び込んできたマクドナルドのMのマークはどんなに安心感を与えてくれたことか。 「開いててよかった〜」  と、これはセブン—イレブンのコピーだが思わず言ってしまってスマイルは¥0。 スウェーデン㈭  はじめてダイナマイトを発明したノーベルの家を車から見たのちに訪れたストックホルム市庁舎はメーラレン湖のほとりにある。  ここはノーベル賞授賞式の晩餐《ばんさん》会が行われる所で、ゆくゆくは私も文学賞の部で出席しなくてはならない(?)から、しっかり下調べをしておくべきである。地下のレストランでは式当日のディナー・メニューをシャンパンからデザートにいたるまでそっくりそのまま同じに出してくれるコースがあるという。 「よし、明日の晩はこのコースを予約しておこう」  と、ランチを食べながら、もう、明日の晩の食事のことを考えている。今日の晩はといえば、 「グレタス・クローグ、で食べるのだわ」  と、ガイドブックで調べた店を予定していた。グレタ・ガルボの生家の一郭にあって彼女の写真がいっぱい飾られているのだという。ガルボのファンである私としてはまっさきに訪れたい店だった。市庁舎、王宮、旧市街などを見たあとは夕食の感動を高める前戯《ぜんぎ》としてPUBに行く。このデパートの帽子売り場で働いていたところをガルボはスカウトされたのだ。当然ながらただのデパートなんだが、かつてはここにガルボがいたのね、と思うとうれしい旅行者の心理。  PUBの前の広場をうろうろしていると黒い犬を連れた少女と立ち話になった。といっても私の英語力のなさを痛感した会話だった。彼女の言っていることがほとんど聞き取れない。ハウスのCMではないが good day が「グッダイ」に聞こえる。  少女は『やかまし村の子供たち』の主人公に似た愛くるしい顔だちで、犬の名前がマルテだと言う。マルテという名前を犬につけるところに、ゲルマン圏情緒を感じ、はるばる来ぬる旅をぞ思いつつ、地下鉄の切符を買うが、これがまた一苦労。「Skanstull」という駅名の発音が私にはうまくできないのだ。車内アナウンスも聞き取れない。スウェーデン語って早い話、ドイツ語をボソボソ静かにしたような言語である。 「まだフランス語だったら第二外国語で選択してたのに……」  などと負け惜しみめいたことを考えはじめ、見る字、聞くことばすべてがウッフ、ウッフ、スタンハンセン、と言っているように感じはじめる。  いらいらしながらグレタ・ガルボの店にようようたどりつくと、なんということか、つぶれているではないか。ガイドブックの版元、三推社編集部さん、訂正しといてね。  しかたがない。白夜に油断してぐずぐずしているとまたマックで食べるハメになる。北欧料理の店ならもうどこでもいい。『ZORBA』という店に入った。頭の中でスタンハンセン、スタンハンセンがこだましているのでゾールッバとかなんとか読むのだろうと思った。意味は判らないが北欧料理の店だと思った。だが、席について料理の説明(英語)にどれもみな With olive oil が付いている。そして、澄み渡るように明るい音楽。これは、もしかして、もしかしない……。 「しまったー。ZORBAってゾルバだ。ここギリシア料理の店だったんだ」  グレタ・ガルボをしのびつつ食べるはずだったのにアンソニー・クイン(注1)を思い出しながら食べることとなった。ストックホルムでのはじめてのディナー。  注1 ギリシア出身の世界的映画俳優。代表作に「その男ゾルバ」「道」など。 スウェーデン㈮  はじめて入った美容院で、私はべらべらとよくしゃべった。美容院はストックホルムの中心街にあり、二階が映画館。『氷の微笑』を見たあとだった。 『シャロン・ストーンのバストは整形だと思った』  美容師から言われ、 『私もそう思った』  と、答える。  べつにどうってことのない会話だが、これでバッチリだ。これで女同士は国籍の差を乗り越えて固い結束ができる。  美容師の名はマリア。二十四歳。ピア・デゲルマルクのような清楚《せいそ》な美人。しかしバストはアニタ・エクバーグ。シャンプーのとき薄目をあけて(スウェーデンでは顔にタオルをかけない)見とれてしまう。 (これは整形ではないわ、どきどき)  女ながら男のような反応をする自分にいつもとまどう私。 「あなたは何座?」 「何座だと思う?」 「そうねえ、獅子《しし》座」 「惜しい。誕生日は近いけど」 「じゃ、乙女座」 「当たり」 「私は牡羊《おひつじ》座なの。牡羊座の申《さる》年よ。自分がモンキーの年だってこと、前にバイトしていた上海のコに教えてもらったの」  などと、なごやかに初級英会話するうち、 (うーん、この会話内容、すでに何度も何度も女同士ではとりかわしている)  異国の地の美容院での会話とは思われない。ピア・デゲルマルクの風貌《ふうぼう》のアニタ・エクバーグのバストのスウェーデン女性から「申年」ということばが出るとは。 「あなたは何年?」 「私? 私は戌《いぬ》年」  日本でおなじみの会話をしているうち、私はすっかりマリアとなじんでしまった。 「ブリジット・ニールセンって、スウェーデンでも人気があるの?」 「あんまり。彼女はスロットよね、ってみんな言っているわ」  シー イズ スロット、とマリアは表現した。slut。スペルはこうである(帰国後調べた。直訳すると「だらしのない女」であるが、ニュアンスとしては、表層的ブランド信仰をしているような、有名人好きの女、みたいな意味)。シルベスター・スタローンと結婚してモデルから女優に転向し、スタローンと結婚して有名になり、すぐに離婚して自分に有利で便利な男を探す……。ニールセンのそんなやり方をスロットだと言っているのだと slut という単語を知らずとも察しはつく。  マリアと私は、日本とスウェーデンの美容院の様子のちがいを話したり、日本で流行《はや》っている音楽や映画の話をしたり、とてもなごやかな会話をかわした。  しかし、 『ねえ、スウェーデンにはカレといっしょに来たの?』  マリアがこの質問をしたときから、私の口調はなごやかではなくなった。 『いいえ! 私にはカレはいないの! 今までも、これから先もいないの!』  声を大にして、私は言った。 「まあ、どうしてそんな悲しいことを言うの?」 「あのね、日本の男は女に対して�お母さん�しか求めないの。セックス付お母さん。女を征服しようとか、狩猟しようとか、女という、自分とは異なる性を屈伏させようというような覇気はわが国の男にはないの。すべてに安全と自己保身を求める、情緒的で依頼心ばかり強くて、一人では食べることも洗濯することもできない、つまり自立できなくて精力を欠いて弱々しい女らしい男ばかりなの!」  ほとんど怒りの演説であった。  そのうえ、 『マリアももし、日本に来たらきっと驚くと思うわ。そのめめしさぶりに! あまりに弱々しくて涙が出るだろうけど、どうか日本商品をボイコットすることはやめてね』  とまで、付け加えた。  ただ、今、ふしぎなのは、どうして英語力がゼロに近い者がここまで英語で悪口をしゃべれたのだろう、ということである。 「火事場の馬鹿力」というが、ここまで悪口を英語で演説してしまえるほど、私の男性に対する嫌悪感は火事場なのだろうか?  マリアは、まあまあ、とやさしくなだめるようにうなずいた後に言った。 『スウェーデンの、いいえ、ヨーロッパの男だって、それは同じよ。彼らはやっぱり�お母さん�が好きよ。ただ、ヨーロッパの男は、わりと早いうちから�お母さん�の庇護《ひご》から独立しなければならないと気づくようになるのが、もしかしたら日本男性とちがう点なのかもしれないわね。そうだわ、ヨーロッパ男性とつきあってみたらどう? ヨーロッパの、そうねえ、ドイツとかスウェーデンとか、そのあたりの男性のほうが、あなたには合うんじゃないかしら』 『まあ、マリア……』  私は感謝の念で涙をにじませそうになった。  いつも女性誌で読者の恋の悩みにコメントしている私。でも、いつも「悩みをうちあけたいのはこっちのほうなのよ」と思っている私。その私をやっとなぐさめてくれたのは、北の果てのスウェーデン女性。 『これからきっとすてきな恋人ができるわよ。才能があって美しい、と自分のことを思わなければいけないわ』  私はマリアがイングリッド・バーグマンにも似ている気がしてきた。グレタ・ガルボにも似ている気がしてきた。 『だいじょうぶ。あなたならきっとだいじょうぶよ』 『そうね。あきらめないことにするわ』  私は鏡の中のマリアに向かってほほえむと、彼女もほほえみを返してくれた。  いつも旅先では美容院に入る私だが、ストックホルムの回は、じつに深い会話をかわせた美容院探検であった。  帰国後は、ゲルマン民族の恋人募集中。 スウェーデン㈯  はじめてダリの絵に唾《つば》をかけた。マティスの絵にもかけた。レプリカにではない。本物のサルバドール・ダリの絵と、本物のアンリ・マティスの絵に唾をかけてしまった。ウォーホールのにもかけたかもしれない。モディリアニのにも。  シェップスホルメン島にあるスウェーデン近代美術館は、まるで個人宅に飾ってあるように絵や作品を展示しているので、うんとこさ間近で鑑賞できるのである。 「まあ、よくもこんな無防備に」  ガラスも柵《さく》もない展示の仕方に感心してダリの絵に近づいた私は、くしゃみをしてしまったので、きっと天才の絵に唾をかけてしまったと思うんだが……。  展示の仕方だけでなく、建物全体が個人宅のような美術館である。いくつかの部屋に、ぽん、ぽんと作品が飾ってあって、ソファがあって、好きな絵があったらソファにごろんとすわって気のすむまで眺めていればよくて、窓からは木もれ日がさして、静かでゆったりしている。  ゆったりした展示のわりに、コレクション数が多く、とちゅうでちょっと休憩したくなった人のために、庭にはカフェもある。  サンドイッチがおいしいので有名なカフェで、これを食べにだけくる人も多いらしい。パンに何をはさむかはレタスの一枚から、タマネギのスライスから、ハムから、チキンからチーズから、ぜんぶ個人個人の勝手なセレクトに応えてくれる。私はピーマンとラディッシュとチキンをセレクト。  木々をわたる風とピカソの彫刻の中で、足を芝生に投げ出してサンドイッチを食べてコーヒーを飲んで、あくびなんかして、さあ、またつづきを見ようかなあ、というかんじで再度、室内の作品を鑑賞できるわけである。  ねえ、なんだか、すごくゼータクだったわ、この美術館にいるとき。だって、もっともリッチな鑑賞の仕方をさせてくれてない? もし、私がマティスの立場だったら、自分の絵をガラスの檻《おり》に入れて柵まで作って、ぎゅうぎゅうに混雑したところで人を疲れさせながら見せたいとは思わないもん。  シェップスホルメン島はサルトシェン湖に浮かんでいて、島といってもとても小さい。繁華街から歩いて、吊《つ》り橋を渡って来れる。島全体が公園のようになっていて、近代美術館のとなりには教会があった。  ヨーロッパの風景写真でよく目にするゴシック建築の建物ではない。ドーム屋根の、ビザンチンふうの建物である。あとで聞いたのだが、ロシア正教系の教会らしい。  入ってみた。内部は薄暗く、誰もいない。高い高い天窓からの光と数本の蝋燭《ろうそく》だけである。  天井はプラネタリウム状になっており、そこにモザイクタイルで宗教画が描かれている。しばらく椅子《いす》にすわってそれを見ていた。  しーん。  ここはシェップスホルメン島。ストックホルムの観光名所だ、それが、しーん、である。日本の観光地ではぜったいにこんなことはない。静かすぎて怖いくらいである。  蝋燭のともるほうを見れば、やはり数枚の宗教画が飾ってある。その絵が、前ルネッサンス・タイプの画風で、美術史用語で正確になんというのかわからないけど、ジョットーとかチマブーエとかあんなふうなかんじの、くすんで硬くて暗いタッチ。蝋燭の火がゆらゆらするので、よけいに暗い絵に見える。 「バテレン……」  頭に、はたと浮かぶこのことば……。 「眠狂四郎……」  まなうらに、はたと浮かぶ市川雷蔵……。  私は蝋燭に近寄っていった。  すると!  誰もいないと思っていたのに、宗教画を飾った机の横に黒い人影が!  はっ、として身構え、目をこらせば、それは司祭であった。牧師というのか。あるいは神父か。ここの教会の正式宗教名がわからないのでわからない。  真っ黒な僧服が保護色となっていたのだった。彼は宗教画の絵はがきを机に並べて売っているのだった。  太って大きい司祭である。髪は赤く、髭《ひげ》も赤い。こんなふうに言ってはもうしわけないのだが、それはもう、市川雷蔵の『眠狂四郎』映画に出てくる悪者のバテレン僧侶《そうりよ》がスクリーンから抜け出てきたような風貌《ふうぼう》である。  私は身のすくむのを感じた。 『メ、メイ アイ サム クエスチョン?』  question って、べつになかったんだけれど、沈黙をやぶりたくて言った。 『イエス』  彼は言った。こわい声ではなかった。こわい声質でもなかった。でも、陽気で親しげな表情もしなかった。でも、つっけんどんでもなかった。  表情のとぼしい中にも、ほんのすこしこのアジア人は何しに来たのかな、という思いのまじった、もう何年もずっと同じことを毎日しつづけている人の顔だった。 『あー、えー、あなたはその、こんな誰もいないところにすわっているのは、その、さびしくありませんか?』  私が聞くと、彼は答えた。 『ノー』  今の時間はいないけれど、礼拝のある日は信者が集まるし、さびしくはないのだと言う。 『そ、そうですか、サンキュー』  私は教会を出た。なんだか心臓がどきどきしていた。  今までの人生では、私は教会に入ると心が落ちついた。こんなにどきどきした教会ははじめてである。 「ここはひとつ写真を」  シャッターを押す。  自分も入れて撮りたい。  五十代くらいの男性が通りかかったので撮り手になってもらうことを頼んだ。  ここで頼んだのでなければ、撮ってもらってサンキューで終わりだっただろう。だが、私はまだどきどきしていた。 『あなたはストックホルムの住人ですか? ここの教会はキリスト教の教会でしょうか? ちょっと変わったかんじに思われるのですが云々』  と、話しかけてしまったのだ。写真の撮り手はストックホルム市内の住人ではなかったが、休日を美術館散策していた人だった。この人から聞いて、ロシア正教系の教会であることを知ったのだ(私の英語力だからもしかしたらまちがっているかもしれない)。 『なるほど。今、入って見てたんですけどね、司祭さんが一人っきりで絵はがき売っててね、蝋燭の火がゆらゆらしててね……』  私がまだどきどきしていて、司祭にさびしくないかと質問したことなどまで話した。 『それで、どう答えました?』  撮り手が訊《き》いたので、 『ヒー アンサード �ノー�』  と、私が言うと、撮り手はすごく笑った。撮り手の名はローランド・カールソンさん。 スウェーデン㉀  はじめてトナカイの肉を食べた。トナカイ料理のある店に連れていってくれたのは公園で知り合ったカールソンさんである。  彼はもちろん常識と節度ある温厚なスウェーデン人(55歳・教会事務員)に見えたのだけれども、異国への一人旅ゆえ、私の頭には『試験に出る英熟語』の例文がこびりついていた。 「cannot〜too〜——どんなに〜しても〜しすぎることはない。cannot be too careful=どんなに警戒してもしすぎることはない」  と、例文を右脳で復唱しつつ、左脳では、 「これはいいガイドを見つけた」  と、日本文化に関心が高くて英語もうまい彼と知り合ったことをラッキー視していた。  国立美術館を案内してもらったあと、いっしょに夕食を食べることになった。 「なにが食べたいですか? 日本料理の店もありますよ」 「いいえ、せっかくスウェーデンに来たのだからスウェーデンらしいものを食べたいです。ガイドブックによると……」  トナカイのステーキが名物、と書いてあった。しかし、だ。  トナカイって英語でなんて言うの? わかんないよ〜。トナカイなんて『試験に出る英単語』に載ってなかったもん。 「アイ ウォントゥ イート ザ ミート オブ……ミート オブ……」 「ミート オブ ワッツ?」  うーん。トナカイ、トナカイ。トナカイってなんて言うの? 「アニマル」 「オブコース、アニマル」 「……うーん」  しかたがない、受験生好みの関係代名詞で乗り切ろう。関係代名詞 that。 「the animal that works with Santa Claus.(サンタクロースといっしょに働いている動物)」  こんな英語で通じるんだろうか。ああ、もっとNHK教育TVで勉強しとくんだった。 「oh, it’s reindeer」  きゃー、よかった。通じたわ。reindeer ! トナカイって reindeer だったのね。  そして私はアットホームな店でトナカイの肉を注文した。てのひらの半分くらいの大きさで二ミリくらいの厚さにスライスした肉が五、六枚、皿にのってやってきた。茶色いソースがかかっている。これは、日本でもよくステーキなんかにかかっているのと同じような味のソース。  さて、本体の味はというと、これがにがい。焦げたような味がしてカスカスである。もう一回食べたいとは、まあ、思わないであろう味だった。  帰国後、カールソンさんからクリスマスカードが届いた。サンタさんを乗せたかわいい reindeer の絵のカードだった。 スウェーデン㈷  はじめて立ち食い食堂に入るときは、はじめて高級レストランに入るときと同じくらいどぎまぎする。ましてやそれがひとりだと。ましてやましてや、それが外国だと。  料金は先に払うのだろうか? 料金にはサラダやコーヒーもセットとして含まれているのだろうか? どこからお盆を取って誰に注文を言うのだろうか? 勝手にフォーク取って怒られないだろうか?  セルゲル広場(ストックホルム)の市場の地下のすみっこで、私はどぎまぎしていた。その店は、一応、椅子《いす》はあるものの、囲いの壁もなく、前の魚屋のあんちゃんの威勢のよい声が筒抜けの、地元の人しか来なさそうな店である。おずおずと私は店の人に顔を向けた。私のようすに気をきかせてくれたのだろう彼女は、いきなり、 「What language do you speak?」  と、質問してきた。まるで英会話㈵のスキットのような構文だ。が、私は絶句した。 (あなたは何語を話すか、などという質問は、単一民族が多数を占める日本ではまずないことだなあ)  と、急に感慨深くなったのである。だが|情熱を内に秘めた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヤマトナデシコな性格は欧米では報われるケースが少ない。相手は私が英語がまったく理解できないと思ったらしく、 『フランス語? ドイツ語? 私はイタリア人よ。イタリア語はどう? それとも中国語? 上海から来た子を呼んであげましょうか。あっいけない、今、いないわ』  と、英語ができないと思ったらしいわりには英語でぺらぺら話すのだ。 『日本語ですけど……』  私は小声で答えた。すると、 『えーっ、それは無理だわ。この市場の誰も話せないわ。困ったわね、メニューもスウェーデン語のしかないの。じゃあ、そのへん見渡して、おいしそうなものを食べてる人がいたら、これがいい、って言ってよ』  と、彼女はテキパキ言って背を向けてしまった。 『ちょ、ちょっと……』  おいしそうなものを食べてる人は誰かしらと、客の皿をのぞいて回るような行動がヤマトナデシコにできようか。私はとにかく目の前の大鍋《なべ》でいい匂《にお》いを放っているスープを注文した。これが大当たり。最高の味だった。私は外食でおいしい料理に会っても、三回食べれば、香りと食感から何を材料にどう作ったかを判断してそっくりにコピーして作れる自信があった。事実、私の料理のレパートリーは全て、自分がどこかの店で食べて築きあげたものである。しかし、このスープはどうしても作れない。  白身魚と野菜がとろりと煮込んである。ニンニクが入っているのはたしかだが、ベースはおそらく北欧独特の香辛料だろう。コクがある。しかも厭味《いやみ》なクセはなくサワヤカな喉《のど》ごしなのだ。自由に取っていいと指示されたライ麦のパンも白菜のサラダも超うす味でスープにぴったり。もう、おいしいのなんの、その上、値段も安いために、以来、ほとんど毎日この店に通った。  通ううち私は、スープのほかにもおいしそうな料理を食べている客がいると、メモ帳にスウェーデン語でその料理名を書いてもらい、それを注文するという変身ぶり。ヤマトナデシコの内に秘めた情熱も、食い物の前では表に出るアルヨ。出るビアン。出っれルーナ(上から中・仏・伊の三カ国語)。 セックス  はじめてセックスをした年齢の平均は、ときどき雑誌などに棒グラフで出ている。最もグラフ棒が高いところが十八歳。 「ぜったい嘘《うそ》だ」  と、私はこのテの統計について思っている。百人にも聞いていないと思う。五十人にも聞いていないだろう。十人にも聞いていないんじゃないか。せいぜい五人くらいに聞いて、それも編集部の周囲にいる五人に聞いて、 「まあ、こんなとこだろう」  と、安心値を最高値に定めて水増ししてグラフを作ったに決まっている(と思う)。安心値とはなにか。これは私の造語で、「多くの人間のかぎりなく印象に近い期待の値」のことである。この安心値は、なにもセックスにかぎらず、すべての事物、事柄に威力を持っていて、 「売れる、ウケる、モテるは、安心値を満たしているか否かで決まる」  と、言ってよい。たとえば『よくつか〜る』という名前の明記された瓶がヌカミソのそばに陳列されているとする。すると、多くの人は、 「きっと漬物に使う調味料だろう」  と、予想し、そこへTVのCMからの、 「おいしい漬物を『よくつか〜る』を使って作ってください」  という主旨のコピーが入力され、人々はすぐに、 「へえ」  と、期待する。その期待は当然、 「これを使えば、今までの面倒なヌカ漬けよりずっと簡単に漬物ができるに違いない」  という期待であり、それは多分にズルい色彩を帯びたものだということも明白なのだが、多くの人々は直視しない。心理学でいう自己防衛規制である。とどのつまり、『よくつか〜る』はわかりやすいネーミングということであり、安心値を満たしている。CMに、榊原郁恵や市毛良枝ではなくシャーロット・ランプリングやジェーン・バーキンを起用すればもっと満たす。 「ほほう、こんな人が漬物をねえ!」  と、超わかりやすい意外性と新鮮みが働き、ランプリングやバーキンの持っているハンコで押したような超わかりやすいコケットリーとぴったりマッチして相乗効果をもたらすのである。  安心値は、現在、マスコミ業界が操作している。はじめてセックスをした年齢が十八歳。 「ほんとかね、そんなこと」  とは、ほとんどの人間が疑わない。そして他人が何歳ではじめてセックスしたか真実を検証するすべもなく、マスコミの情報はいつのまにか真実と錯覚される。 「あの人は本当に二十九歳まで処女だったのかしら」  マスコミが取り上げたくとも取り上げられないさる高貴な女性のことについて、下々ではよく噂《うわさ》されるけれども、二十九歳で処女というのは少しもヘンなことではないと、私は思う。 007映画  はじめて観た007映画は『ゴールドフィンガー』だったか『ロシアより愛をこめて』だったか。それとも『サンダーボール作戦』であったか。どれだっていい。どれも同じようなもんだ。チャチな特撮、ムリな設定、紋きり型のストーリー、あきれるほど死なないボンド。 「え〜、あんなの観るのヤだよ〜」  と言う人の気持ちもよくわかる。わかるけれども、私はボンドフィルムが好きだ。なんと言われようと好きだ。古いやつはTVとビデオで観た。新しいやつは公開されたら必ず観に行く。そのわりに、 「んもう、サイコーッ!」  と嬉々《きき》として映画館を出てくることは、まずない。ないんだけれど観るのだ。観てしまうのだ。あのオープニングの、ビビビ〜ビ〜、ビビン、ビビビ〜ビ〜、ビビン、ばきゅーん、チャラ〜チャラ、ララ〜、という、例のアレを聞いたり思い出したりすると、なんだかもう、いてもたってもいられなくなってきて「観なくてはいけない」と思ってしまうのだ。足元がそわそわしてきて、はげしい任務感と使命感に襲われ、切符売り場が見えてくると走り出して「大人一枚」の券を息せききって買うのである。  どんなに裏切られてもいい。どんなにくだらなくてもいい。 「すべてのボンドガールとヤっておきたい!」  という思いが、私には強く強くある。ボンドガールを見ておきたいのだ。目で舐《な》めておきたいのだ。女に生まれたくせに、 「男に生まれたからにはボンドガールとは全員おてあわせしておかねば!」  という任務感と使命感である。そして、同時に、 「やはり男の理想のすがたはジェームス・ボンドよ!」  とも思い、世の男性に啓蒙《けいもう》したくなる。ところが、では、歴代ボンド役の俳優のファンだったことがあるかといや、それがどうしたことか、まったくない。ショーン・コネリーやティモシー・ダルトンなんか、どっちかといえばキライだ。最新ボンドのスピーク・ラークのあんちゃんだって、なんの興味もわかない。むしろ敵の、クリストファー・リーやリチャード・キール(ジョーズ役)が好きで、最新ボンドで006をやったショーン・ビーンなどジャスト・マイ・タイプ(三白眼に弱いんです、私)でシビれてしまい、006は敵に寝返るので、ボンド側より敵側を応援していたくらいである。  そうなんだけど、でも「男はボンドに尽きる」という思いは確固としてゆるがぬわけで、およそ人類に生まれたならば、男はジェームス・ボンド、女はボンドガールを目指してこそ正しい生き方というものである。それにしても浜美枝はいい。グレース・ジョーンズも最高だ。私はこの先も007シリーズを見つづけん。万歳。 そんなこと聞くよ  はじめてそんなこと聞くよと大半の男性は思うかもしれないが、大半の女は次のようなセリフに大喜びする。 「色気がないなあ」 「感覚が男だよなあ」 「もうちょっと女っぽくしてほしいよな」  等々。じつは女は「男っぽい」と言われたいのである。賭《か》けてもいい。 「きみってサバサバしてて男みたいだ」  などと言われたあかつきにゃ、たいていの女は口では、 「ヘーンだ。どうせわたしは男ですよー」  などと言いつつ、心中では小躍りしている。本当である。他人から言われない場合は自ら言う。女性タレントのエッセイやトーク番組を見てみよ。和田アキ子と木原光知子を除いて全員が、 「わたしって、実は男みたいなんです」 「カッと怒ってすぐに忘れるサバサバ派」  というようなことを言う。誰一人として、 「わたしって、すごく女っぽくて、いつまでもいつまでもこだわってるんです」 「あまり怒らないけどネットリしてます」  とは言わない。つまり男はサッパリしていて女はネチネチしているという概念が女にはあるのだ。女が女に対して、 「まあ、〇〇ちゃんて女らしいのね」 「〇〇ちゃんて女っぽいよね」  と、なにげなく言う場合、その奥にはあきらかに〇〇ちゃんに対する悪意がある。なにげなくではなく、慎重に言う場合は善意だが。  で、私はここで「男=サッパリ、女=ネチネチ」という概念は性差別であるといったフェミニズム論を持ち出すつもりは毛頭なく、「わたしは男っぽい」と言いたがる女が大嫌いだと言いたい。こういう女を、私はぜったい信用できない。「俺《おれ》って考えないの。寝たら忘れる」と言いたがる男が大嫌いだと言いたい。こういう男を私はハナから疑ってかかる。困ったことにたいていの男女がこれを主張するので、よってたいていの男女が私は嫌いになってくる。つまり「サバサバしてる」ことをウリにする人間というのが私にはちゃんちゃらおかしいのだ。旧西側先進諸国においてサバサバしている人間などいるだろうか。もしいたとしたら一種の躁《そう》病の疑いがある。早めにカウンセリングを受けたほうがよい。サバサバしているなど、人間として超不自然ではないか。 「サバサバしてるからさあ」  だって。なんというあざとい自己プレゼン。私はだんじてネットリとネチネチとウェットをウリにする。 男性ストリップ・ショー  はじめて男性ストリップ・ショーを見た。  西麻布「J. men's」は、まるでグリニッジ・ビレッジにあるみたいなレストラン・バー。だから気軽に入れちゃう。  ストリップっていってもゼーンゼンいやらしくなくて、とってもおしゃれ。ドル札をナイス・ルッキングなダンサーのブリーフにはさんであげるのもゴキゲンよ。貴方も来週あたり、お友だちを誘ってぜひ行ってみて! ——と、なんだか「Hanako」用の原稿を、頼まれもしないのに書いている気分になってきた。  さて、男性の肉体といえばミケランジェロのダビデ彫刻が極致であると私は思っている。よってダビデ像からどれだけ近いか遠いかで、私の左脳は美の採点をする。美採点と好き嫌いの採点はまったく別物である。  たとえば、美採点10点満点で、草刈正雄が7点。オール巨人が4点。好き嫌い採点では草刈が2点。オール巨人が9点。  好き嫌い採点というのは中身の好き嫌いではない。あくまでも|外見の好き嫌い《ヽヽヽヽヽヽヽ》である。オール巨人の中身も好きかというと、中身に関しては右脳の受け持ちなのでまた別である。中身点(=雰囲気点)では、オール巨人の場合は4点で、ダドリー・ムーアが8点。  なぜ、こんなことをくどくど説明するかというと、 「舞台や映画で踊ったり花の主人公をしたりする人間は、男女問わず外見美《ヽヽヽ》採点がもっとも優先する」  と、言いたい! 個性だの内面からにじむ情熱だの、そんなもん、言い訳だ。  どんなに矢崎滋がタンゴがうまかったとしても、タンゴのへたなアラン・ドロンに負ける。ダドリー・ムーアがどんなに高価なオーダーメイド軍服を着ても、レンタル軍服のクリストファー・プラマーに負ける。  ビジュアル・メディアというものはそういうものだ。そういう残酷さを持ったものだ。その残酷な現実を受け止めてこそ、プロである。矢崎滋もダドリー・ムーアも残酷な現実を直視する謙虚さと賢さを持っていたからこそ、そこではじめて個性が人々に愛されているプロなのである。 「J. men’s」のストリップは、セクシーダンス・ショーとでも呼ぶべき陽気で気軽なものだけれども、それでも客から金をとるのだから、舞台上の肉体が金をとるに値する、見せるに値する外見でなくてはならない。  この点、欧米人は舞台ばえするので日本人より圧倒的に有利。これを日本人がするとなると、どうすればいいのだろう。同じ演出では、ぜったいオカシイ。  いろいろ案を練ってみたが、この種の考察は、いつも結局、 「日本人はお能を舞ってればいい」  に、たどりついてしまう。  森有礼も、ある日、鹿鳴館でふとこう思ったのではないだろうか。 乳房クリーム  はじめて乳房クリームを使用したのは一九八八年である。 「毎日塗布、必定膨張貴女之乳房、我々所有、報告是十糎以上膨張乳房」  説明書にはこんなふうな感じの漢字が並んでおり、とくに製造元名の中国××公司という、この公司という漢字が「これは効きそうだ」という感じを与えた。価格は一瓶二万円。年収が二百万といくらしかなかった私にとって二万円もするクリームは乾坤一擲《けんこんいつてき》の投資であった。 「効いてくれ、効いてください。効きますように。何とぞよろしくお願いいたします」  私は銭湯の脱衣所で祈りながらせっせと乳房にこの公司クリームを塗った。おそらく当時、男性の脱衣所では『101』を頭にふりかけながら、私と同じように祈っている人がいたことだろう。  乳房を大きくしたい。これは十歳からの私の切々たる望みであった。十歳のころといえば、世をあげてサイケの時代であった。大阪万博がもうすぐ開催されようとし、小川ローザがCMでパンツを見せ、大橋巨泉とハナ肇がTVでゲバゲバと言った。  そんな時代にあって彗星《すいせい》のごとく登場した一人の男。名は永井豪。そうだ『ハレンチ学園』、日本文化屈指の名作。あの悲痛な叫びの強大なエネルギーを持った、あの迫力のSMのエロスの神髄!  永井豪が悦楽とする性の感覚と私のそれはまったく同じものであった。どういう感覚かと言及することはこの本では不適切なので割愛するが、乳房に関してのみ言及すると、 「乳房は大きくなくてはならぬ!」  という、ほとんど強迫の観念である。肉は理にはるかに勝るという三島由紀夫の美意識ともまったく同じであると、このさい言い切る。私は悩んだ。なぜなら小学生のとき私の乳房は小さかったのである。背も高く大柄なのに乳房だけが「やーい、洗濯板」と、男子のみならず女子からもからかわれるほど小さい。「ペッタンコちゃん」とも呼ばれていた。しかし同級生のからかい以上に誰よりも自分が自分を許せなかった。だから小学校を卒業後、胸が93�になっても、今でも、 「もっと大きくしないと。大きくしないと」  と、常に強迫されるのである。  背を猫背にして、いつもバストラインを隠す洋服を着て、私は日々を送っていた。そこで見つけた公司クリームだったわけだ。祈りながら塗った結果は、ただ|かぶれた《ヽヽヽヽ》。赤い湿疹《しつしん》が乳房一面にできて痒《かゆ》くなり、ちっとも乳房は大きくならなかった。 「そんなもんより胸パッドをするとよい」  と言ったマガジンハウスのサカワキさん、あげ底じゃ意味がないんだってば。だから三島は割腹したんだから……。 通天閣  はじめて通天閣にのぼった。  関西に生まれ育ちながら、私は関西の有名な場所に行ったことがほとんどない。高校を卒業するまで土蔵に幽閉されていたからである。極端な説明だが。  高校卒業後は東京に来てしまったので、よって関西地区の街をぶらぶらする機会に恵まれなかった。  映画『どついたるねん』で印象的だったエレベーターのシーン。今度帰省したら大阪にまで足をのばしてみようと思っていたところの通天閣だった。  この高塔は明治四十五年、パリのエッフェル塔を模倣してつくられた。第二次大戦中に一度撤去されていて、現在のものは二代目である。二代目も昭和三十一年の建設であるから、はっきり言ってもうボロい。トイレの天井が斜めになっていて用をたす際にすごく圧迫感がある。デザイン優先の古い建築方法の典型ではないだろうか。  しかし、つくられた当時はさぞかし人々に、粋《すい》な印象を与えたことであろう。初代がつくられた明治四十五年ならなおさらである。なんといっても、塔のたっている一帯の地名が「新世界」である。  新世界。現在ではもう聞き慣れてしまって、新世界と言われても、ドボルザークの交響曲を内耳《ないじ》にできる人は幸いで、私など花よりダンゴで、神田にあるうまい中華店を思い出してヨダレが出るしまつ。パチンコ「新世界」、麻雀「新世界」も思い出す。  新世界。よくよく字面を見れば、よくよく発音すれば、なんという蠱惑《こわく》的な響きの名詞であることか。人工的で享楽的で、どきどきするような、そこに行けばなにかが待っていてくれるような響きだ。  そもそも、本家エッフェル塔が万国博覧会の催し物(?)としてつくられたように通天閣もまた博覧会に際してつくられ、それであたりの地域を新世界と呼んだらしい。このことは現在ではあまり知られていない。  新世界という、イルミネーションがまぶしそうな名称を持ちながら、時を経て白日のもとに晒《さら》される、イルミネーションの剥《は》がれ落ちた顔の哀感にもまた、私はとても魅力を感じる。が、たぶんそれはたまに訪れる者の絵空事の詩情にすぎないのだとも思う。  通天閣の五階にはぽつんと卓球台が置かれていた。三十分三百円。ボール紙にマジックで書かれている。  卓球をしてみた。同行者を私は簡単に負かせると思っていたが相手もまた同じように思っていた。卓球部だった過去をお互い知らなかった。結果、|ど《ヽ》真剣な試合になった。哀感も詩情も蠱惑もあったものではない。「とにかく勝ったるんや!」、この直截《ちよくせつ》な快楽こそ現実なのだと思った。汗だくになった。 「京都タワーと東京タワーと横浜マリンタワーと幕張タワー、全部行ったけど、通天閣が一番おもしろかった。ベスト・ワン・タワーやわ」  新幹線ホームで私は関西の友に言った。 掴 む  はじめて「掴《つか》む」という漢字をおぼえたのは、十三歳のときであった。まじめな中学生だった。模範生といってよかっただろう。びくびくしながら雑誌「スクリーン」を買っていた。田舎村では映画に興味を持つことは歓迎されなかった。びくびくしながら映画雑誌を買ってコソコソ読むことでせめて映画への飢えを癒《いや》していた。  ある日、本屋へ行くと「スクリーン」の横に「ロングラン」という雑誌がある。新刊誌だった。表紙はジェーン・フォンダ。うれしくて、なけなしのこづかいをはたいて二冊買った。「スクリーン」と同じような雑誌だと思っていたが、ちがった。  ああ、かつて「スクリーン」読者だった皆さん、おぼえていらっしゃるだろうか。「スクリーン」の粗悪な紙質のページを。成人映画紹介の二色ページ。モノクロではなく緑色がかっていたり紫色がかっていたりするページ。ただでさえもコソコソ読んでいる「スクリーン」をさらにコソコソ読んだ、あのページ。 「ロングラン」という雑誌は「スクリーン」のあのページが丸ごと一冊になったような雑誌だったのだ。しかも随所にカラーページ。しかも「スクリーン」よりずっと映画からの抜粋写真が多く、しかもストーリー紹介がくわしい。当時、一世を風靡《ふうび》していた西ドイツ製ポルノ『女子学生○秘レポート』の抜粋写真などはちょうど漫画のようにコマ送りで数ページにわたり、一つ一つの写真に場面紹介文がつくという親切さ。 「ひゃあ……なんという雑誌を買ってしまったのかしら」  おろおろしながらも、 「こりゃあ儲《もう》けもんだった」  と同時に思ってしまう十三歳は、性に関するエッチな情報に興味津々の年ごろ。どきどきしながら、いや、そのとき客観的観察をしたならたぶん、目をらんらんとさせて、私は「ロングラン」を読んだ。 「誌上ロードショー」なるページがあって『サンドラ・ジュリアンの色情日記』という作品がとりあげられていた。ヒッチハイクするヒロインが次々といやらしい人に遭遇するストーリーなのだが、いやらしい人の一人に太った司祭がいて、そこの場面が、 「脂ぎって好色そうな彼は、むっちりとした彼女の乳房を掴んだ」  と描写されている。掴むという難しい字を私は知らなかった。しかし前後の文章から判断できた。「掴む」という字の仰々しい|面がまえ《ヽヽヽヽ》と「むっちりとした」という形容詞との対照が実にみごとに調和していた。まさしく「掴む」という感じだった。  以来、私は活字の中に「つかむ」と平仮名で表記されているとどうも居心地が悪くてたまらず、「掴む」と校正したくなる。そして自分が文中で「掴む」と書くたびサンドラ・ジュリアンを思い出す。「ロングラン」は二号目からは田舎の本屋には置かれなかった。 デヴィ夫人  はじめてデヴィ夫人を知ったのは小学校五年生のときである。もちろん、じっさいに会って挨拶《あいさつ》をしたりしたわけではない。 「そういう存在の人がいる」  ということを知った。  それはそれは「?」だった。わけがわからない。たとえばヨーコ・デヴィとか、ヌクレチア・デヴィとか、デヴィ・鈴木とかいうのなら、頭のなかの「?」の数は、まだしもすくなくてすんだだろう。だが、デヴィ夫人は、あくまでもただデヴィ夫人なのである。  この、あくまでもデヴィ夫人なる人物は、どうやら女であるらしい。女性週刊誌の新聞広告に、当時、毎週のようにその名が出て、それで知ったのだった。 〈津川雅彦と深夜の密会!〉 〈津川雅彦の車に同席!〉  こういった活字を毎週、目にした。たしか前年あたりに、 〈アラン・ドロンついにパリ警察に逮捕〉 〈マルコビッチ殺人事件〉  という見出しをよく見た記憶がある。アラン・ドロンの顔写真は小学生心にも、 「あいかわらずハンサムですこと」  と映ったが、デヴィ夫人のほうは、失礼な言い方になるかもしれないが、仮面のように映った。  表情がないように見え、なおのこと小学生の頭のなかに、「?」が増える。 「なあ、デヴィ夫人ってなんやのん?」 「さあ、なんやろ」  同級生のキミヨちゃんとふたりで首をかしげあう。 「このな、�ヴ�ていう字やけど、これ、どう読むのん?」 「でぶい夫人? 太ってはる人なんやろか」  小学生には「V」のカタカナ表記も謎《なぞ》である。 「デビ夫人て書いたあるやつもあるで」 「デビイ夫人て書いたあるやつもある」 「どれがほんまの名前や?」 「さあ。いったい|なにじん《ヽヽヽヽ》なんや?」 「わからへんわ。なんやろ、この人」  とにかくデヴィ夫人は謎の中の謎の人物であった。謎のまま、彼女の名前は週刊誌広告に出なくなり、小学生はすっかり忘れた。謎が解けたのは、はるか後年、大学生になってからだった。赤坂のクラブ『ミカド』で勤務中に、インドネシアのスカルノ前大統領に見初《みそ》められて何番目かの夫人になってクーデターでパリに移り住んだ人。これが真相なんであるが、しかし、いまだにデヴィ夫人というのは私にとって謎である。どうやって生活しているのか、もし彼女が名刺を作るなら肩書はどうなるのか、 「??? わからん」  である。わからんが、私はデヴィ夫人が好きだ。自分の人生を(顔も?)自らの手でフロンティアしてきた人というかんじがする。ちんまりとデートしてちんまりと「つきあう」とかいうのをやっている人よりね。 D社のS  はじめてD社のSを買ったとき、まだフランスは核実験を行っていなかった。Sというのはフランスの会社の出した「塗るだけでやせる」と大評判のジェルである。買って二週間ほどしたらシラクが核実験をしはじめたのだ。 「胸クソ悪いっ!」  洋服ダンスを蹴飛《けと》ばして、以降、フランス製品はいっさい買わないようにした。 「そんなことをしても意味がない」  と言う人もいたが、気分的に買いたくなくなるではないか。私だけなのか? みんなはそうではないのか? 成田でもスキッポル(オランダ)でも「Sは売り切れました」の表示がしてある。核実験のまっさいちゅうにSが売り切れになっているなんて、なんでよ? それまでフランス製品にキャーキャー言ってた女の子たちがいっせいにスパッとてのひら返して、 「あんたんとこのモンなんか買わないわ」  て、やってやりゃいいじゃねえか、って私なんかは思ったんだが。やっぱり『プリティ・ウーマン』がヒットするようなうちは核実験も原発もなくならない、ってそんな気がした。  それでもSは一応、使用した。胸クソ悪いっ、と思いながら塗ったせいか効果はゼロだった。みごとにやせなかった。 「あーあ、またしても……」  自分が情けなかった。過去にも同様の失敗をしでかしているではないか。塗るだけでおっぱいが大きくなるとかいうクリーム。あれもなんの効果もなかった。「××するだけで〇〇になる」といううたい文句に何度ダマされれば気がすむのだ。ほんとに情けない。反省しつつも反省の記憶が薄れたころに新製品が出る。するとまた、 「もしかしたら——」  と思ってしまうヒトの心よ、スキッポル空港で私は化粧品売り場のお姉さんに訊《き》いた。 「フランス製品ではないもので、Sと同じような効果のあるものはありませんか」  お姉さんの瞳《ひとみ》はきりりと光り、きっぱりと答えた。 「イエス。ウイ、ハブ ディス ワン。」  と。そして取り出しましたるはモナコ製品『BIOTERM』。英・仏・西・独・伊・蘭・ポルトガル・スウェーデン語等、数カ国語で書かれた説明書を読むと「使って四日目で94%の人が肌がすべすべした、74%がひきしまった、82%がいい感触」と書いてある。なんという漠然とした表現。レトリックのマジック。 「より平和な世界を築くために建設的に核の実験を行うのだ」  と言ってるのと、曖昧《あいまい》さではほとんど同じかもしれない。しかし目下、私はこのモナコ製のやつを使用している。値段はSより安い。香りもSよりずっとよい。効果は後に報告するので、今後ともぜひ御愛読くださいますやう。 (文庫本特典・後日報告=全く効果ありませんでした。) テーブル・ストリップ㈰  はじめてテーブル・ストリップを見た。テーブルの上でストリップをしてくれるのを見るんじゃなくて、自分のテーブルのところに踊り子さんが来てくれて、目の前でストリップをしてくれるものだ。 「そういうの、女の人も入っていいの?」  と、多くの女性読者が思うであろうように、私も思った。たいていのストリップ・ショーというのは女性客をいやがる。いやがってきた歴史があった。踊り子さんがいやがるのだそうだ。それが近年では、 「女の人にもセクシーな踊りをわかってほしいわ。たのしんでほしいわ」  ということを言うような風潮が一部には出てきて「女性のためのストリップ」というものも、たまにある。  これには以前、行ったことがある。堪能はできなかった。女性向きにしてあるから、ということより、そういう催しにはマスコミ関係者が多くて、ごくふつうに「ストリップ・ショーを見に行く」という雰囲気ではなかったからである。  子供のころから私はストリップが見たくてたまらなかった。成人映画よりもブルーフィルムよりもポルノよりも裏ビデよりも、ストリップが見たかった。  ここに金田一京助・見坊豪紀・山田忠雄・金田一春彦著の三省堂国語辞典がある。昭和四十六年一月十日/初版 第九十四刷発行。  小学校二年生のときに買ってもらっていまだに持っているものであるが、当時、この辞典で私は「ストリップ」という項目をふと読んだ。 「ストリップ(ショー)(名)〔米 strip(show)〕女が衣装《イショウ》をつぎつぎにぬいで踊る演芸」  はげしい興奮が生じた。無味乾燥な記述に想像力をかきたてられ、無味乾燥な中にも「つぎつぎにぬいで踊る」の部分に潜む、「女体の驕慢《きようまん》と、それに対する蔑視《べつし》と欲望あいまじったような男の視線」のようなものを勝手に嗅《か》ぎつけた。四名の著者にはたいへんもうしわけないことをしているが、小学生はそのとき勝手にそう思ったのだ。だから、ずっとストリップが見たかった。ストリップという語に欲情していた。  年長けてからも何度、変装して見に行こうと思ったかしれない。じっさい小屋の前まではよく行った。変装はしなかった。  学生のころは髪をとても短くしていたので、平素のだぼだぼしたジャケットとパンツを着ていると時々、男子学生にまちがわれたから、そんなに違和感なく小屋に近づけた。しかし看板を見ると入る気が失せて引き返した。看板には和風の色気がただよっていて、それが好みではなかったためだ。  リカちゃんよりバービーを好んだ私には永井荷風的情趣というのがどうもよろしくない。『くりいむれもん』的エロ(童顔に半球型の巨乳)も、私には永井荷風的情趣のバリエーションに思われる。そこで谷崎潤一郎的エロを求めて今回のストリップ行きとなったわけだが、続きは次ページね。 テーブル・ストリップ㈪  はじめてテーブル・ストリップへ行った話の続き。  そこは六本木にある。客の大半がジンガイの、入口からして、 「こりゃ高そう」  な店である。こういう店は、よって、 「女の人もぜんぜん平気よ」  であるので、私は連れといっしょに席についた。応接間に置かれるようなソファとテーブルのセット。私たちは、女2男2である。かかっている音楽はストーンズ、ボブ・スキャッグス、デビッド・ボウイあたり。すでに、よそのテーブルでは女店員が踊っている。女店員もジンガイ、パッキンである。この店員を|別途料金《ヽヽヽヽ》にて自分の席に呼ぶシステムになっている。 「どれどれ。どの子にしよう」  私の目は選択モードになる。選択モードで女店員をチェックしはじめると、 「残念だ。ここには好みの子はいない」  ことがすぐに判明してしまった。私の好みは、ようするにラクウェル・ウェルチである。四十年ものあいだ無実の罪で刑務所に服役した男の映画『ショーシャンクの空に』を見たときも、主人公が壁に貼《は》るラクウェル・ウェルチのポスターを、本当に心の底の底から感情移入して眺めたくらい、ウェルチこそ私の究極のオナペットである。だからして、いかにウェルチに近いかが選択基準となる。  この店にはウェルチに近い子はいなかった。全員がフランソワーズ・アルヌール・タイプ。つまりおしゃれでキュートなパリジェンヌのかんじのパッキンである。私、これ、ダメなんですね。だって欲情しないんだもん。 「いたしかたない、あの子にしよう」  あくまでも|この店の中では《ヽヽヽヽヽヽヽ》濃厚なタイプに目をつけたのに、連れの男1が勝手に別の子を呼んでしまった。あろうことか店員中、もっとも清純なタイプである。 「くそ! 金を払うのは私なのに」  心中、地団太踏んだが「ちがうの、あんたじゃない子を」と言うわけにもいかず、リー・トンプソンに似たその子にストリップしてもらった。  金を払う者が女だと知ってリー嬢は一瞬、けげんな顔をしたものの、そこはプロ、じつにさわやかに踊って脱いでくれた。といってもキャミソールとパンティ(Tバック)しか着てないので、上を脱ぐともうそれで脱ぐ衣服はザッツ・オールである。  お尻《しり》と乳房をふって、それから肉体の部位を、私の顔にくっつきそうになるほど近よせてくれる。あんまり近よせるんで、 「うむむ。これではちっとも見えん!」  なうえに、テーブルには〈踊り子にはぜったいに触れないでください〉という〈注意書き〉が置いてある。かような肉体の部位を眼前に突き出されているのに、さわれないという実に残念な結末が私を待っていただけのテーブル・ストリップでした。これで3万はやっぱり高いと思うぞ。 東 京  はじめて東京を訪れたのは一九七〇年である。小学校の六年生の夏休みだった。 「上京」したわけではない。サイトシーイングといえばいいか。家庭の事情あって、私は幼児期にいろいろな家に預けに出されていた。そのうちの一人がNさんといい、東京に引っ越していて、 「どうも幼児のときは、たいへんたいへんお世話になりました」  というような御礼を申し上げるのが本来の目的であった。だが、小学校六年の私は確固たる決意を胸に抱いていた。 「漫画家になる」  である。高橋真琴の絵の表紙のノートに書いた自作物語をリュックにつめて新幹線に乗った。漫画家志望なのに、どこにも自作画がないのは致命的な欠点である。それにまったく気づかなかったところが、やはり小学生だ。千代田区一ツ橋か文京区音羽という場所にさえ行けばどうにかなる気でいた小学生の浅知恵よ。  東京駅に着いたときには胸が高鳴った。駅まで迎えに来てくれたNさんにご挨拶《あいさつ》もそこそこに、頭のなかには、弓月光先生やもりたじゅん先生や里中満智子先生や一条ゆかり先生や山岸凉子先生やのがみけい先生等々の顔がバクハツしそうに浮かぶ。 「静香たん」の顔まで浮かぶ。「静香たん」というのは、当時一条ゆかり先生のアシスタントをしていた人で、一条ゆかり漫画のコマのはしっことか「りぼん」の最後のほうにあった「ハーイ、お元気」という読者投稿欄の司会(?)で登場していた。  それはもううっとりしながら山手線から窓の景色を眺めている私に、Nさんは、 「大きくなったわねえ。赤ちゃんのときはおねしょをして布団を何枚もダメにしたのに……」  などと無粋なことを言う。小六といえばおねしょのことを言われると最も恥ずかしい年齢なのにィ。  恥じ入りながら山手線から降りると、いよいよ私は東京の景色を食い入るように眺めた。高いビルやたくさんの人は、さほど新鮮には感じなかった。東京でなくとも、四大都市ならそうした光景は目にするからである。しかし。 「アアッ!」  失神するほどの光景に出くわした。どこかの交差点のビルの上に看板がかかっていたのである。その看板には、 『プレイボーイ/集英社』  と書かれてあったのだ。出版社の看板。これこそはじめて目にするものであり、 「東京だ。ここは東京なのだ。私は今こそ東京の地におりたったのだ!」  と感じるものであった。そして社会科のテストで阪神工業地帯と中京工業地帯と京葉工業地帯のグラフを識別する問題では、 「出版、という項目が入っているグラフが京葉工業地帯のものです」  と教えた先生のことばを実感しつつ、東京の道路に直立不動していた十一歳の夏。 東京タワー㈰  はじめて東京タワーに行ったのは一九七〇年である。はとバスに乗って行った。  小学生だったから皇居なんかどうでもよい。はやく東京タワーに行きたいと、バスがタワーに着くのをそれはもうたのしみにしていた。いや、正確に言うと東京タワーそのものではなく、東京タワーの蝋《ろう》人形館をたのしみにしていた。  あのころの一大人気TV番組といえば、  ♪あ〜 あの日、愛した人を〜♪  野際陽子のふるえるソプラノでおなじみの『キイハンター』である。歌の前にちょこっとフランス語のささやきが入る。 「オゥ〜、ダム〜ル、ウ〜ン、ダモ〜ル」  フランス語が聞き取れた小学生だったわけではなくて、 「フランス語で、愛はダムール、死はダモール。よく似ているね、実際、愛とは死への道なのかもしれない」  とかなんとか丹波哲郎か誰かに教えられた大川栄子が、おフランスなタナトスに感心する回がちゃんとあったのである。以来、私はどうも「死に至る愛」とか「破滅の愛」とかものものしく沈鬱《ちんうつ》に言われても、「オゥ〜、ダム〜ル、ウ〜ン、ダモ〜ル」と、土曜の夜九時を待つウキウキした気分になってしまうのだが『キイハンター』のこの回を忘れてしまった人が多いのか、こういうことを言うと怒る人が多い(そういう人は「涙=高級」「笑い=低級」と信じている)。  大川栄子は『キイハンター』のなかでは「かわいい新米さん」といった立場にいた。丸顔にストレートのロングヘアをセンター分けにしている。オープニングでは危機一髪で窮地から脱して車の陰でホッと息を吐くところで、白ヌキで大川栄子と名前が出た。だいたい谷隼人とコンビを組む。この大川栄子が、ある回で、ふしぎな暗闇《くらやみ》に迷い込む。そこを不安げに歩いていくと、明かりが見える。 「あれは?」  劇場らしき桟敷席で赤いビロードのカーテンを背に座っている男がいる。タキシード姿だ。 「ハッ、あれはリンカーンじゃないの」  気づくやいなや、赤いカーテンがそうっと開き、不審な男が背後からリンカーンの頭に銃を向けている。 「あっ、危ないッ!」  大川栄子の目が見開くと同時にバキューンと銃声。叫ぶ大川栄子。しかし、それは蝋人形だった——という回である。  東京タワーに蝋人形館がオープンしたばかりのころで、宣伝を兼ねたような話だったのだろうが、小学生にはそういうことはわからない。 「なんてドキドキするお話かしら」  と思い、後日に仕入れた情報から、そのドキドキする館は東京タワーにあると知り、行ってみたくてたまらなかったのだった。さて、蝋人形館に足を踏み入れたところ……。次ページへ。 東京タワー㈪  はじめて東京タワーへ行った話のつづき。  さて、はとバスのコースだと蝋《ろう》人形館はオプションである。別途料金を払わねばならない。 「わたしは外で待ってるわ」  小学生の私に付き添って東京案内をしてくれていた知り合いのお姉さん(推定二十四歳)はぴしゃりと言った。いっしょのバスに乗って来た人のなかにもこの館を素通りする人がずいぶんいた。 (そうか。こんなおもしろそうな所に入りたくないと思う人もいるのか)  新鮮な納得をし、私はひとりでとことこ館に入って行った。入ってすぐに『キイハンター』で見たリンカーン暗殺シーンの再現人形があった。赤いカーテンの隙間《すきま》から暗殺者が銃を打つと、 「きゃーっ」 「ああ、びっくりしたあ」  観客が驚き、 「フフン、知ってたわ」  私は鼻高々になった。  うきうきする私の目に蝋人形たちは輝くばかりに豪華|絢爛《けんらん》に映った。実際、館がオープンしたてで人形は新しく、小道具もぴかぴかできれいだったのである。  とりわけ、バイクにまたがるプレスリー人形の後ろで、彼に乗せてもらっている按配《あんばい》になっているナンシー・シナトラに見とれた。きらびやかな金髪で白いミニスカートで男の運転するバイクにまたがり、高らかに声をあげて笑う彫りの深いその顔。そして「美貌《びぼう》と才能で観客を魅了する女性ミュージシャン」といったような説明のついたプレート。こういう説明ではなかったのかもしれないが、こういう説明がしてあるようにその人形は私に思わせた。 「なんてなんてゴージャスな美人!」  私は彼女に見とれ、ぼうっとなった。  ナンシー・シナトラはシナトラというくらいだからもちろんフランクの娘である。だが、「世界的ミュージシャン」のコーナーに置かれる人かといえば首をかしげる人も少なくないことを後年の知識で得た。しかし憧《あこが》れの蝋人形館にいよいよ入った私には、  |そのときそこにいたナンシー《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、  フランク以上に世界の高みにあるスーパー・スターであったし(事実、お父さん人形のほうはまるで記憶がない)、静止したままの蝋人形が、静止したままであるがゆえに彼女の嬌声《きようせい》が耳に聞こえるようであったのだ。 「ああ、蝋人形館! なんてすてきな所! 来てよかった! 来られてよかった! 私は今、もうれつに感動している!」  心中を「!」でいっぱいにしながら、ナンシーにうしろ髪をひかれつつ、うきたつ気分に笑う足で順路を先に進めた。すると今度は私の心ではなく下腹部を「!」でいっぱいにする人形が待っていたのである。  まず精神面から人をとらえ、次に肉体面から人をとらえる、この心憎い配置の配慮。東京タワー蝋人形館は期待以上にすばらしい空間であった。 東京タワー㈫  はじめて東京タワーの蝋人形館に行った話のつづき。  さて、ナンシー・シナトラの人形にぼうっとなった小学生の私の下腹部をじりじりと焦がした女性はブリジット・バルドーであった。  音楽に疎く、映画にはマセていた六年生の私は、ナンシーとちがって|ベベ《ヽヽ》のことはよく知っていた。三年生のときに『可愛い悪魔』という映画を、 「『魔法使いサリー』に出てくるカブのような悪魔の新米がゆかいなことをする映画にちがいない」  と、実に清純なかんちがいをして見て、ジャン・ギャバン扮《ふん》する初老弁護士を蠱惑《こわく》するベベの黒いブラジャーにいたく衝撃を受けていたからである。世の中に白ではなくて黒のブラジャーが存在することに、なにか「淫靡《いんび》」の象徴を見たようで、後年、そのときの衝撃を綴《つづ》って『わたしの心に残る思い出のヨーロッパ映画』という�東急が主催した映画祭りの作文コンクールに応募して何等かに入ってスコッチをもらったことがある(大学生のとき)。  そのベベであるが、蝋人形館では青い桟《さん》の窓の向こうにいた。全裸の前を白いバスタオルで隠して首をちょっとかたむけて立っている。照明はついているが、ベベ人形はゆっくりと回転するので、回転してきて、ほんの一瞬だけ観客に背中とお尻《しり》を向け、後はふたたび暗い。 「ン————ッ!」  私はドキドキして、目を見開いた。見たい。もっと見たい。ベベの裸が見たい。その全貌《ぜんぼう》を詳しく見たい。一部始終を見たい。そう強く願って。  だが、まわりにはほかの観客がいる。私は女だから、こういう人形の前にそうそう長く立っているわけにはいかない……にちがいないと小学生は思う。しかたなく先へ進み、巧妙に後戻りして、またベベを見る。しかし、照明はあいかわらず、ほんの一瞬しかベベの肉体を照らしてはくれない。 「お、お願いだ。じ、じらさないでくれ」  ほとんどジャン・ギャバンの初老弁護士の心境になった十一歳の小学生女児は何度も何度も「先へ進んではまた戻る」をくりかえし、ベベの人形の前にいすわった。  実物のベベをよく知っている(映画で)者には、人形は、ぜんぜんといっていいくらい彼女に似ていなかった。トレードマークである厚いくちびるが薄すぎたし、ふとももも細すぎた。しかし、蝋《ろう》人形となることでブリジット・バルドーという女優の伝説性が永遠化されていて、全裸にバスタオル一枚で前を隠しているその姿が、彼女の記号となって私を圧倒した。おそらくヒトは「あらかじめ自分の脳にインプットされたイメージのエキス(=記号)」が三次元化して自分の前に現れたときに、安定した感動に陶酔できるのであろう。茶髪でちりちりパーマで赤いミニスカをはいている本物の処女より、ストレートのセミロングで白いブラウスを着ている偽物の処女に「おお、処女だ!」と興奮するように。安定なくしてはナイーブなペニスは勃起《ぼつき》できないのではないかと思う。 東京タワー㈬  はじめて東京タワーの蝋《ろう》人形館へ行った話のつづき。  小さなタオル一枚だけを、じらすように豊かな裸身に当てたバルドーの人形……べつにわざわざ「小さな」という形容詞をつける必要はなく、ふつうサイズのバスタオルだったのかもしれないが、私の目にはそう見えた……そう見えるような気分(エロ)になった後に大衆がなにを望むかといえば暗闇《くらやみ》である。  もともと暗い館は順路が進むにつれ、うんと暗くなった。暗闇の入口には蝋涙したたるがごとき文字で「恐怖の館」とある。エロと来たら次はグロ。いつの世も大衆はこのセットに煽情《せんじよう》される。  とりわけバーチャル・リアリティという「枠=大義名分」を他者から設けてもらえれば自己の罪悪感から逃れて愉《たの》しめる。「まあ、いやらしいッ」「キャー、怖い」と叫ぶ自分のなかに、それを愉しんでいる自分がいることを直視することはなく。  とはいえ小学生の足は「恐怖の館」の前で素直《すなお》に緊張した。だが、時は一九七〇年。オープンしてまもないこの館には大勢の入場者がいたので、他の客にくっつくようにして暗闇へと足を踏み入れた。  トップバッターはホラー業界の王者、ドラキュラ伯爵様である。タキシードに黒いマント。しかけの風で黒いマントの裏の赤い布がひるがえる堂々たる定番ぶり。  エロとグロの究極の融合、「大衆のキャーッという叫び」におけるヘレニズム文明こそ吸血鬼ドラキュラだ。 「なあなあ、あんた、ドラキュラと狼男とフランケンシュタインではどれが一番、怖い?」  小学生が仲間うちでよくやるアンケート。 「そやなあ、やっぱりドラキュラや」 「うちもや」  うちも。うちも。圧倒的多数票獲得のドラキュラ伯爵様は、だが東京タワーの蝋人形館では、私の足をそれほどはすくませなかった。恐怖コースの入口間近に伯爵がお立ちになっていたため、私の背後はまだ明るかったし、バルドー人形によるエロの甘味が私の内部に多分に残って勝っていた。  ちなみに先のアンケートにも、私は「うちも」とは答えていない。エロい吸血鬼は、エロいということで怖さは半減する。  その上、吸血鬼といえばクリストファー・リー、クリストファー・リーといえば吸血鬼である。この俳優について、小学生の私は早くに気づいていたのだ。 「あっ、夢路いとしに似ている。顔の輪郭とか、下の前歯が見えるところとか」  と。夢路いとし(近くは『ふたりっ子』に出ていた、昔は『がっちり買いまショー』の司会をしていた漫才師)に似ている吸血鬼は、私からエロい気分もずいぶん奪ったものである。そんな吸血鬼よりも、私をピュアに「怖い」と思わせる人形が館では待っていた。それは……? 東京タワー㈭  はじめてアレを見たときのショックはひとかたならぬものがあった。なんといっても十一歳。檻《おり》の前で私は立ちすくんだ。檻のなかでは蝋《ろう》人形がさまざまな拷問をし、されているのである。開拓民らしき男がインディアンに頭の皮を剥《は》がされているところ。鳥籠《かご》のような小さな鉄の枠のなかに男が閉じ込められて死ぬまでその姿勢を保たされているところ、KKKのような黒い三角形の覆面をした拷問者が、男を台の上に仰向けに縛りつけて口からジョウゴでどんどん水をいれて、腹をふくらませているところ。こうしたシーンに、いちいち説明プレートが冷静についているのがまた怖かった。 「拷問……この字からして怖い、暗い……」  檻の前でぎゅっとこぶしをにぎる私が順路を進めたところにアレはあった。直径二メートルほどの車輪の外側に、男が海老《えび》反りになったかっこうで縛りつけられている。車輪の下には鋭い鉄の杭《くい》がいくつもついた板が置いてある。ぎりぎりと車輪が回り、車輪とともに男の体も回り、一回転してくると、鉄杭は男の腹や顔をむごたらしく裂き、また車輪は回り、男もいったん上方へ回るが、また下までくると……という仕組みの拷問具である。ま新しい蝋人形の男の腹の肉はびろびろに裂け、真っ赤な血が塗られ、鉄杭の板を通過するたびに、 「ウギャーッ!」  という絶叫が聞こえるしかけになっている。アレはじつに残酷な臨場感を見る者に与える人形であった。 「ああ、怖かった」  胸に両手を当て、拷問の檻を後にすると、ようやく出口である。出口の脇《わき》に記念写真のコーナーがあった。暗い石の部屋になっている。白衣を着た科学者らしき男と、なにか重たい機械と、そして大きなベッド。ベッドに寝ている人形の頭と機械は電線でつながっている。そうだ。フランケンシュタイン博士と人造人間の蝋人形である。この石の部屋で人形といっしょに記念のポラロイド写真を撮ってあげるというコーナーなのである。私は迷った。ものすごい長い時間迷った。まず、料金が五百円。一九七〇年当時で、しかも私は小学生である。五百円は五千円くらいの感覚だった。 「だが、こんなに興奮した館はなかった」  ええい、という気持ちで金を出そうとしたのだが、ベッドの上で人造人間の心臓あたりがドクン、ドクンと音をたてて動いているのが、蝋人形なのだとわかっているのにどうしても、 「怖いよう!」  と思われてならず、足がふるえて、金を係員に渡せないのである。前項のアンケートでの私の答えは「フランケンシュタイン」だったのだ。 「どうしよう……どうしよう……」  あまりに長々と迷っているうち、館外で待っていてくれた知り合いのお姉さんに、 「もう、はとバスが出る時間よ」  と出口のほうから腕を引っ張られて、結局、撮らずに終わってしまった蝋人形館。ずっと後年、上京してきた私はここに何度も足を運んだが、何回行っても怖い。 トリップ  はじめてトリップを体験した。ストリップじゃない、トリップ。スリップでもクリップでもなく、もちろん「小旅行」という意味のトリップでもなくて、 「ああん、気持ちイイぃ」  っていう、あのトリップ。ま、ストリップにおいてこのような状態になる人もいるようだし、下着フェチの人はスリップでこのような状態になるかもしれないし、マゾヒストの人はクリップでこのような状態になることもあるらしいが、私の体験したトリップは、薬物を使用しない、きわめて合法的なトリップである。  種を明かせばなんのことはない。ランニング・ハイと呼ばれるものだ。マラソン、ジョギングなどの有酸素運動を行うと、ときとしてこの状態になるのだと、以前から聞いてはいた。しかし私は、 「あー、運動して気分さっぱり」  といった、いたって平凡な状態にしかなったことがなかった。それが、このたび、ランニング・マシーン使用中に、なった。 「やや起伏のある丘を5キロ走る」のと同じに設定されたこの機械を、私はあまり好まなかった。ダンス的な要素がなく単調なため、走ることの「しんどさ」ばかり感じさせるのだ。とりわけ2キロめくらいがピークになる。  |しんどさ《ヽヽヽヽ》をまぎらわすべく、ウォークマンをして走る。平素よりアニメの主題歌が大好きな私。『宇宙エース』『スーパージェッター』など、元気がよい歌で走るにはもってこいだが、へタすると2キロめの、息が苦しくゼイゼイしているピークにテープが♪思いこんだら、試練の道を♪と『巨人の星』になり、苦しさに追い打ちをかけるから要注意。  で、このあいだはミッシェル・ポルナレフ聞きながら、セーラー服のころの甘い憧《あこが》れやときめきを思い出しつつ走っていた。それが心理効果をあげたのかどうか、2キロめで、足首が軽くなった。雲の上を歩いているよう。ふくらはぎも、続いてふとももも軽くなり、誰かがウエストを抱きかかえて運んでくれているような、それこそ天にのぼっていくような感じになり、心の中から、イヤなこと、わずらわしいことがさーっと抜けてゆき、頭の中に蜂蜜《はちみつ》を一瓶こぼしたようになり、折しもテープ曲は『バラ色の心』。  その快感といったら、自分がかつてさんざん書き散らした小説のヒロインが閨房《けいぼう》で出すような叫び声をあげてしまったくらいである。  セーラー服のころ、学習雑誌のなんとかコースで、性の悩み相談を受けた評論家の先生が、 「スポーツで解消しましょう」  などと答えているのをバカにしていた。ごめんなさい。まちがっておりました。ホントに解消されます。  ただ、セックスにおけるハイというのを私は知らないんだが、ランニング・ハイにかぎっていえば、あれは「行く、行く」ではなく「あ、来る、来る」という感じである。なるほどスポーツには国境がないんですね。 70年代ファッション  はじめて70年代ファッションを身近にしたのは、70年代である。つまりリアルタイムである。……。年齢がばれる。  当時、私は小学校高学年であった。これが低学年であったなら、まだ社会風俗にはさほど関心がなかったかもしれないが、女子小学生で高学年というとすでにマセている。「セブンティーン」「ヤングレディ」等をよく読んでいた。創刊したばかりの「anan」もたまに見た。  サイケの時代と評されたあのころ('68〜'72)、大人の世界はそれはそれは刺激的だった。自分の置かれている「場」はあくまでも「子供」であることがよけいに「大人」への興味を増させた。トンボ眼鏡、プラスチックのヘア飾り、裾《すそ》のひろがったストライプのジーンズ、ぽっくりのようなヒールの靴、ヘソを出した丈の短い、ぴちぴちのシャツ。シャツはたいてい原色で、やはり原色の星の模様などがプリントされている。そんなファッションは刺激的な大人の世界の象徴のようだった。 「こういう服を着て、大人の人はゴーゴー喫茶に行って、破滅的な恋をするのね」  と、子供は想像していたものだが、やがて時が流れ自分が大人になると、かつてのファッションが、 「げーっ、なんてダサいもんだったのだろう!」  と、笑死しそうになった(当時の雑誌の写真を見て)。 「そりゃね、サイレント映画の時代のファッションも、バーグマンの時代のファッションも、オナシス夫人の時代のファッションも、みんなそれなりにすてきよ。今見たって新鮮だわ。でもでも、この70年代ファッション、このサイケの時代のやつだけは、どうしても、どうしても笑えるわ」  同世代の友だちと写真を指さしながら大笑いしたものだ。 「なんでこんなもんが流行《はや》ったんだろうね。見て見て、このぴちぴちでキュウキュウの苦しそうなシャツ。どんなにやせてる人でもデブに見える」 「ほんと、この耳のとこでくるりんと髪をカールさせる髪形。どんなに知的な人も阿呆《アホ》ヅラにさせる髪形だわ」  などと、腹をかかえて笑った。そして、 「流行は繰り返すというけれど、どんなことがあったって、この時代のファッションだけはリバイバルしないわね」  というのが結論だった。それなのに! ちょっと前からこの時代のファッションが十代のコに大流行りで、今なお続いているではないか。彼らは当時を知らないからあのファッションが新鮮に見えるのかもしれないが、彼らとすれちがうたび、 「き、きみたち……ば、万博にでも行ってきた帰りなのかね? それともモーレツ社員なのかね?」  と訊《き》きたくなってしまう私である。かつては私たちは「戦争を知らない子供たち」と呼ばれていたんだが……。 ナムコ・ワンダーエッグ  はじめてナムコ・ワンダーエッグに行った。ナムコという社名があたまについていることからおわかりのように、規模の大きなゲームセンター、か、あるいは、規模の小さな遊園地である。ある寒い日、近所を歩いていたら、入場券をもらったのだ。 「この券一枚でペアで御入場できます」  券には記されてあり、この記述が私をよけいに寒々と、そりゃもう凍えそうなほどに寒々とさせたのは、独り身のあなた、恋人のできる気配すらないあなた、異性の体温と無接触な日々を送る三十代のあなた、あなたにならおわかりいただけると思う! 「ペアで御入場」「ペアで御招待」などとまったく世の中にはペア、ペア、と、いやみったらしいったらありゃしない。なにがペアだ。つばを吐いてやらあ、ペアッ。私は思い、我が身を我が腕で抱きしめながら寒い心を慰め、しかし、券はしっかりポケットに入れた。 「ふん。遊園地くらい一人で行ってやる」  の、予定だったが、その昔、ロスのディズニーランドに一人で行ったときの思い出が脳裏をよぎった。ゴンドラに乗ろうとした私に係員は、 「オオ……オンリー・ワン?」  と、世にも哀れな者を見る目で、心から気の毒がる目で、ジーザスクライストのごとくに慈悲深く、私の肩を叩《たた》いたのである。そんなことをしてくれなければ、幼児のころからいつも単独行動だった私はべつに一人で遊園地にいることなど気にしていなかったのに、よけいなことをする奴《やつ》がアメリカにいたせいで、ナムコの入場券をどう処理すべきかあぐねた。同性の友人を誘ったところ、 「二枚ペア券があるの? 彼と行くから一枚ちょうだいよ」  などと言いやがる。だれがやるか。私がもらったんだ。意地悪ババアと化した私は、券の有効期限が迫っていたこともあり、結局、某文芸出版社の担当編集者二人という、小説書きがもっとも陥りやすいナサケナイ選択をした。担当編集者二人がナサケナイ男なわけではない。二人とも各々恋人を所持しており、かわいそうな私のためにボランティアで同行してくれたわけで、この|組み合わせ《ヽヽヽヽヽ》が色気のイの字もなくてナサケナイわけである。  なにせ、ワンダーエッグ内はどこもかしこも、男女のペア、ペア、ペア、ペア。土曜の夜ということもあり、三人などという組み合わせは私たちだけだったのではないだろうか。宇宙船に乗って敵を撃つ立体ギャラクシアンふうゲームも、ユーノスロードスターに乗ってドライブするゲームも、相性占いの魔女の館も、なにもかもがペアで行うことを基準に作られてあるのだ。 「オオ……オンリー・ワン?」  とは訊《き》かれなかったが、乗り物に乗ろうとするたび、 「三人さまですかあ」  と訊かれた。ペアがなにさ、3Pのほうが刺激的なんだからね……とは言えない組み合わせだったのが、ああ、やっぱり寒い独り身である。 人 相  はじめて人相や手相といったものに信憑《しんぴよう》性を感じている。 「りぼん」「少女フレンド」から「anan」「モア」「ウィズ」にいたるまで、女性雑誌には必ず占星術が掲載されていて、つまり女は幼きころから妙齢にいたるまで占星術を目にして年月を経るわけだから、占星術に対してはあまり抵抗感を抱かないように育つ。なにせ占星術はたいへん漠然としている。 「冥王星《めいおうせい》が活動を休み、今月のあなたは水星の影響が大。水星はサービス心|旺盛《おうせい》な星です。パーティではきっと主役に」  などと書いてあると、ふうんそんなものか、と思えないこともないことはない。  だが、人相、手相占いとなると、 「鼻梁《びりよう》がすっきりと整っている人は理性的で家庭婦人としてもソツがない。口もとにほくろがある人は淫乱《いんらん》です」  などと言うものだから、じゃあ、整形手術した人はどうなるのよ、ったくDNAが作ったデザインで勝手に性格を判断しないでくれ、と、まるで信じられなくなるのだった。  この系統の占いでとりわけ有名なのが「福耳」というやつで、耳の形で金が出入りしてたまるかと思っていた。  私は大柄なのだが耳が小さい。耳たぶが桜の花びら一枚大より小さくて「金持ちにはなれない耳だねえ」とか「そのうち金を盗まれるのではないか」「実業家にならなくてよかったね」とか、よく言われた。「なんて薄幸そうな耳だろう」とまで言った人もいる。  ところが、四年ほど前からイヤリングをするたび、我が指の先は微妙な変化を感じはじめたのだ。 「あれ、何だか今日は耳たぶがふんわりしてるな」  最初はこのていどだった。それが日に日に、月に月に、年々、 「あれ、何だか前より耳たぶの面積が広がったような」「前よりイヤリングがしやすくなったような」「前より指先でつまめる肉の量がアップしたような」  と、感じてゆく。私の耳をして「福耳ではない」という主旨を述べた人々に見せたところ、 「まちがいない。前より耳たぶが大きくなっている。あきらかにふくらんでいる」  という結論に達した。耳たぶだけではない。医学的な名称はわからないが、耳たぶ以外のぐちゃぐちゃした部分もぽちゃぽちゃとやわらかくなっているのである。四年前から体重は変化がない。耳だけが太るなどということがあるのだろうか?  四年前と今の決定的な変化はなんだろうかとつらつら考えるに、なにを隠そう収入である。四年前、私の年収は二百万円台だった。四年前に仕事上で大きな変化があり年収二百万円台という状態から脱出したのだ。  こういうわけで、観相占いに信憑性を感じる今日このごろであるが、もしかしたら前に書いた乳房を大きくする中国製のクリームを胸に塗った手で知らず知らず耳をさわっていたのかもしれない。 ネーデルランド㈰  はじめて飛行機のなかで原稿を書いている。KLM862便。これからネーデルランドはアムステルダムを経由してストックホルムに行く。  お、いいぞ。気分が徐々に村上龍と坂本龍一の往復書簡になってきた。  航空会社名と経由地と行き先を書いただけで、世界のリュウとリューイチの気分になれるとは、我ながらお手軽な脳みそだ。実は傷心を癒《いや》すために旅に出たのに、所期目的を忘れるところだった。  何が傷心なのかというと、こんなふうに一人で旅行をせねばならぬ身の上に、そっくりそのまま原因はある。  三年前にストックホルムへ行き、現地で知り合った人が、 「次にスウェーデンに来るとき、あなたはきっと恋人と一緒でしょう」  と予言して下さったというのに、だが友よ、また今回も一人なのである。 「一人旅こそ充実感がある。一人で旅行しないような男はペニスも小さい」  などと暴論を他誌に書いたものの、そして何となくこの説は当たっているような気もするものの、 「一人旅を|せざるをえない《ヽヽヽヽヽヽヽ》」  という状況は、いいかげん傷心にもなる。とくに、こうして書いている隣で三十代の日本人カップルが抱き合って眠っている(眠ったふりをしている?)と。眠りながら、男は女の額をなで、女は男の腕に胸を押しつけている。あーあ、もうイヤだよ、あたしゃ。 「まあ、ことばの通じない場所に行ったらメランコリーになってる暇もなかろう」  ってことで一カ月弱の旅行に出てきたのだった。  スウェーデンはともかく、何でオランダまで混じっちゃったのかというと、これが何でだか自分でもよくわからん。単なるはずみか。  オランダについて知ってることといや、アンネ・フランクの家、ゴッホ、シルビア・クリステル、宮沢りえちゃんのお父さん、マタハリ、佐川君が食べた、シーボルトがなりすましてた、ゴーダチーズ、風車、くらいしかない。こんなんで大丈夫かね。  ともかくも、さっき食べたKLM機内食のオランダ・パンはうまかった。もう一個ほしい。  はるさめとこんにゃくの煮つけもうまかった。パンと煮つけで、たちどころに傷心を忘れるとは、我ながら重厚な食い意地だ。とりあえず、 「ぼくは今シベリア上空にいる。外気温度はマイナス55℃だ。自信を持って言えることが一つだけある。成田でも機内でも、ぼくが最も汚い格好をしている」  午前便なので、前日寝ていたままのトレーナーとスウェット・パンツで家を出てきたのだ。友よ、また会おう。 ネーデルランド㈪  はじめてのネーデルランドはアムステルダムの病院に行った。アムステルダムといえば『雨のアムステルダム』のアムステルダムである。ショーケンと岸恵子が出た映画にこういう題のやつがあったのだ。見たことないが。  そのアムステルダムについた次の日、ホテルの部屋を出ようとすると目が痛い。 「ハッ、これは……」  目の玉の奥のほうがズキズキとして、ごろごろと異物が当たっているような痛み。何度かおぼえがある。コンタクトレンズがずるりと目の玉をすべって奥のほうに入りこんでしまったときの痛みである。こうなると自分で取り出すのはたいへんで、医者に取ってもらうしかない。前にも三回、コレで医者の世話になった。  だが、海外で病院に行くというのは、やはりやっかいな思いがある。なんといっても私は「英語はペラペラな人」ではないのである。 「しかし、目がやっかいなことになるのは、よりやっかいだ」  左目をおさえながら、ホテルのフロントで一番近い眼科はどこかと訊《き》いた。 「Oh、ドウシマシタカ、ナニナニ、ナルホド、タイヘンデス。ココニ行クトヨイデス。タクシードライバー ニ ワタシ ガ説明シテアゲマショウ」  シャロン・ストーンのようなお姉さんがタクシーを呼んでくれ、到着した先は、どでかいビルヂング。「VU/academisch zieknhuis」  右目で読む。英語以上にオランダ語はできないが、できなくったって大学病院である。一目|瞭然《りようぜん》とはこのことだ。 「ううむ。どうやって入っていけばいいのだ」  オランダじゃなくても、この大学病院というやつは、どこをどう入るのか、どこで手続きをすればいいのか、よくわからん。おそるおそるシェリー・ウインタースのような看護婦さんに声をかける。 「ヴィンセントヴァンゴッホ。バーホーベン、ゴッホ。ワットイズ、ゴッホ」  う。困った、なんと言ってるのかさっぱりわからん。私は「英語がペラペラではない人」ながら、すっかりアメリカ英語に慣れてしまっていて、イギリス人の英語も苦手なんである。オーストラリア人の英語はより苦手で、オランダ人の英語はさらに苦手で、何を言われてもゴッホ、ゴッホと言っているように聞こえる。 「えーと、えーと……」  おどおどするから、私の英語はよけいに意味不明、発音不明になってきて、シェリー・ウインタースはもっとゴッホ、ゴッホと言い、ますます私の発音はおどおどして、シェリー・ウインタースはもっともっとゴホゴホになる。この悪循環をたちきるにはどうしたらよいか。 「日本人です。診察してくれーっ(のin English)」  答えは堂々とこう言うことであった。  大きな声で語す。これがどんなに大切なことか、身にしみました。 ネーデルランド㈫  はじめて行ったアムステルダムの大学病院で、私は受付手続きをすませた。 『ここでしばらくお待ちください』  受付嬢は院内一隅のソファを指す。  左目をおさえながら、私はビニール・レザーのソファにすわった。あたりはシーンとしている。一般患者の待合室とはちがうようだ。ソファには私のほかにあと二人がすわっている。女の人である。ずきんをかぶっている。 『ムスターファ、ヤ、ムスターファ』  みたいなかんじの、まったくわからない言語を二人はかわす。ずきんをかぶった女の人といっしょに診察の番を待っているというのは、えもいわれず「ああ、異国だ」という気分になる。そこへダイアン・キートンのような医師がやってきた。 『ハロー。はじめまして。私の名前はダイアン・キートンです』  手をさしだすダイアン。私は彼女と握手し、ナイストゥーミーチューの挨拶《あいさつ》をする。 『で、どうしましたか?』 『はあ、コンタクトレンズが目の奥にはいりこんでとれないのですが……』 『なるほど、わかりました。もうちょっとお待ちくださいね』  ダイアンは私の言ったことをメモし、どこかへ立ち去った。しばらくするとオスマン・トルコのような医師がやってきた。 『ハロー。はじめまして。私はオスマン・トルコです』  手をさしだすオスマン。私は彼と握手し、ナイストゥーミーチューをし、 『これこれしかじかで……』  また同じ説明をして診察室に入った。 『では調べてみましょう』  瞼《まぶた》を押し広げるオスマン。 『ふうむ……どこだろう。ないなあ』  つぶやいたあと、ちょっとわからないので他の医者を呼んでくるという。しばらくすると、レンブラントのような医師がオスマンとともにやってきた。 『ハロー。はじめまして。私はレンブラントです』  手をさしだすレンブラント。私は彼と握手をし、またナイストゥーミーチューをする。二人の医師は私を手術台に寝かせ、目を検査した。だが、レンズはみつからないと言う。 『あなたは日本でもこういうことがありましたか?』 『はい。三回』 『そんなとき、ジャパニーズ・ドクターはどうやってレンズをとりだしましたか?』 『どうやってって、そんなことは目の診療中には見えませんでした』 『そりゃ、そうですね』  なごやかな笑いが診察室に。だが、レンズはみつからない。目はごろごろする。 『どうもわかりません。起きてください』  私は手術台からおりた。おりた私にオスマンとレンブラントは言った。 『私たちは専門が眼科ではありません。眼科棟に行ったほうがいいでしょう』  と。うーん、さいしょから眼科にまわしておくれよ。オランダのドクターズ。 ネーデルランド㈬  はじめてアムステルダムの大学病院に行った話のつづき。眼科棟で私を迎えてくれたのはゲルマン系とおぼしき女性ドクターだった。 『まず基礎検査をしますが、英語はできますね』  断言である。しかたあるまい。オランダ人と日本人がいて、オランダ人は日本語が話せず、日本人はオランダ語が話せぬ場合「ではアルバニア語で話しましょう」ということになるケースはまずない。 『ゆっくり話してくだされば』  私は検査機の前にすわった。コンタクトを使用している人ならおなじみだろう。顎《あご》を台にのせて、望遠鏡のようなものをのぞく検査機だ。そこをのぞくと、日本だと、放射状に線の入った赤と緑の円が二つ見える。だが、アムステルダムのやつはちがった。道路と車の絵である。 (どうせなら風車とチューリップの絵にすればよかったのに)  などと考えていると、 『視神経そのものに異常がないかをテストします。怖がらないでください』  ドクターが言うやいなや、シュッと空気が目に発射された。 「ひゃあっ」  驚いて、思わず顔をそらせる。 『怖がらないで。だいじょうぶです』  ビー リラックス。先生は言うが、そう言われても、怖いよ。語学堪能な人にはわからんだろうが、そもそも異国で英語で診察を受けること自体がビクビクすることなのに、目にシュッと空気を当てられるなど、どんなに緊張するか。にぎりこぶしをつくって私は、二発目、三発目の「シュッ」を目玉に受けた。 『OK。異常ありません。バーホーベン先生(みたいな名前)の部屋へどうぞ』  向かいの部屋に入ったときには、もうぐったりとしていた。なにせ外科棟でオランダ人2、トルコ人1の計3名のドクターにそれぞれ「ナイストゥーミーチュー」と握手と「どうしました?」への答弁をやってきて、眼科棟で「シュッ」と何発かされた果てのバーホーベン先生である。彼女はインドネシア系だった。私の顔を見ると言った。 『ナイストゥーミーチュー』  私は握手をし、 『どうしました?』  コンタクトの状態を説明する。これが最後であってくれと願いつつ。そしてようやく検査終了。結局、コンタクトはみつからなかった。きっと病院に来るまでのあいだに奥にズレていたものがなにかのはずみで落ちたのだということだった。かくしてはじめてのオランダ観光は「終日大学病院めぐり」となった。880YEN也。支払いのさい、経理のお姉さんが黄色いプラスチックのカードをくれた。 『これでまた診察してもらえます』  オー、ノッナイストゥーユーズイット、サンキュー、バイバイ。 ネーデルランド㈭  はじめてアムステルダムの中央駅に立って思ったことは、 「ぐっと背が低くなった」  である。あたりをいきかう人の身長が、ストックホルムと比較するとぐっと低い。なんでも世界で一番、身長が高いのはノルウェー人で、ついでオランダ人、スウェーデン人なんだそうである。だからアムステルダムだって、 「わー、みんな大きい」  と思うはずだと思っていたのだが、ちがった。たしかにオランダ人は大きいのだが、オランダはかつて各地に植民地を持っていた国。したがって、いろいろな人種が住んでいるので、街の光景としてはぐっと低くなるわけだ。  ほとんどスウェーデン人で占められているストックホルムでは、なにもかもが上のほうにあった。シャワーをフックにかけようとすれば背伸びせねばならず、デパートに行けば、メイアイヘルプユーをはるか上方から言われる。それはまぎれもなく動物として「威圧」を感じることである。だが、威圧されるたびに私の全身は甘くよろこびにうちふるえた。 「ああ〜、威圧されてる〜」 「ああ〜、私、私、威圧されてる〜」  と。  小柄な女の人にはわからないだろう。ええ、ええ、わかってたまるもんか! ぜったいわかるもんか!  どんなに男が、その本能のレベルで、その遺伝子のレベルで小柄な女を選択するか。たとえ、大柄な女を好む男がいたとしても、それは「あえて」好んでいるのである。♂の本能と遺伝子にあえて反する負けん気なのである。もちろん、それはすばらしいことだ。  しかし私は負けん気などいっさいない、超オーソドックスな嗜好《しこう》の女であるから、♀の本能と遺伝のレベルで、おそらく長いあいだ願っていたのである。威圧されたいと。  ストックホルムのデパートで洋服を試着していて、自分の本性をつくづく知った。試す服、試す服、みんな手がすっぽりと袖《そで》で隠れる。日本では♂を威圧するしかなかった大柄な私が、 「Sサイズはありますか?」  と尋ねるときの、あのときの、おお、あのときの、思わず涙が流れ、腰のあたりがぐにゃぐにゃになりそうなほどのよろこびと甘美! 棚の品を、身長二メートルの店員にとってもらうときなど、 「私も威圧してもらえたのだ、やっと、やっと私も威圧してもらえたのだ。生きててよかった……」  ほとんど気絶しそうなくらいうれしかった。  アムステルダムはおもしろい街だが、そういう意味では威圧に満ちてはいない。大柄な女性のための旅のガイド。 ネーデルランド㈮  はじめて娼婦《しようふ》と値段交渉をした。アムステルダムは「飾り窓の女」の通り。ここは公営売春街である。細い路地に面して売春部屋が並んでいる。各部屋にはショーウインドーのような大きな窓があり、そこで娼婦がなまめかしい下着姿で立っている。道ゆく者はそのなかから気に入った女性を選び、値段交渉が成立すれば部屋に入る。 「行為中」には窓にカーテンが下がる。  アムステルダムというのはおかしな街で、こうした通りを、ごくふつうの家族づれが歩いていく。赤ん坊をうば車に乗せたパパや小学生くらいの男の子をつれた主婦がスーパーの買い物袋をさげて歩いていく。買い物袋がこすれそうなくらいすぐ横に「飾り窓」はあり、そのなかでバーンとおっぱいを出して、赤いガーターベルトをした女性が客を呼ぶべくウインクしていたりするのである。  私は彼女たちを心ゆくまで眺めたくてたまらなかった。 「まあ、これが娼婦ね」  と思って眺めたいのでは、まったくなくて、 「見たい! 裸が見たい!」  と思って眺めたいのだ。女体というものが、とりわけ裸の女体というものが私は好きで好きでならない。 「だってキレイですもの」  と思って好きなわけでは、まったくなくて、純然たるスケベ心で好きだ。だから私は見たかった。そして、できれば金を払って、その乳房やお尻《しり》をさわりたくてしかたがなかった。 「ああ、心ゆくまで眺めて、自分の好みの子を選びたい」  と思うのだが、恥ずかしくて見られない。男はじろじろ彼女たちを見ているが、女はだれも見ていない。 「恥ずかしい。でも見たい」  はげしく葛藤《かつとう》した。まるで男子中学生がポルノ映画館に入ろうかどうしようか迷っているときのように。 「パツキンの犀《さい》の角《つの》型のおっぱいをさわりたい。大きなお尻をなでたい」  千昌夫のように欲した。しかし見られない。恥ずかしい上に、娼婦側は女がじろじろ見ていると不愉快なのではないかと想像し、ますます見られない。  しかたがないので、通りを行ったり来たりして、ちら、ちらと盗み見する。そんなことをしている私を、通行人(男)が不審そうに、ちら、ちらと見る。ジレンマだ。  そのとき私のすぐ横でカーテンが開いた。「ペントハウス」のグラビアタイプ。ジャスト・マイ・タイプ。 「ええい、旅の恥はかきすて」  典型的な日本人男性観光客(とくに団体)になった気持ちで、私は声をかけた。 「しゅ、趣味はなんですか? お話するだけでもいいです」  と。しかし、断られた。次回は男装して行くことにする。 のぞみ  はじめて「のぞみ」に乗った。新大阪を20時52分に出て東京着が23時24分だった。所要時間2時間32分。これが同じ停車駅数の「ひかり」だと2時間54分。よって「のぞみ」は「ひかり」より22分はやく東京に着く。 「たった22分?」と、とるか、「22分もはやく?」と、とるか。私の場合は前者である。乗ってから新聞で読んだのだが「のぞみ」は事故の危険性が高いらしい。たった22分のためには、もう乗りたくないような気分になる。  しかし、22分といえば、 「後ろから近づいて頭をなぐり、相手が気絶したところでさらに胸を刺し、死体を車まで運ぶことができる……」  などと、時刻表を見ながら計算してこの原稿を書いていたものだから、ついつい発想が鉄道ミステリー作家になってしまう。だが、やはり現実的には22分で人を殺して車まで運ぶにはよほど人を殺し慣れてないと不可能だと思う。  この鉄道ミステリーといえば、これにはよく主人公の隣の席に美人、あるいはハンサムがすわるというシーンが出てきて、たいていサングラスをかけている。サングラスをしているのになぜ美形だとわかるのかいつも疑問なのだが、このシーンこそ、 「そんなことありっこないよ」  と、思わせるものだ。  私は大阪‐東京の新幹線をよく利用するほうだが、ここ十余年のあいだ、一度たりともハンサムな男性の隣だったことなどない。食堂車へ移動したところで、どの車両にもそんな人はいなかったと言っても過言ではない。目が悪いからか? 同郷の同級生に国際線スチュワーデスになった友人がいて、彼女もしきりにうなずく。 「ほんまや。私なんか、飛行機、バス、特急。帰国したらモノレールに国内線に、普通電車。いやというほど乗り物に乗ってんのに隣がハンサムやったなんてこと、そんなもん一回もあらへんわ」  スチュワーデスになれるくらいだから、彼女の視力はすごくいい。それがこの答えである。たぶん、男性だって私たちと同じ感想を持って乗り物に乗っているのではないだろうか。隣が美人だったなんてこと一回もない、と。  なぜだろうか? 私は|鉄道皆不美形ミステリー《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の謎《なぞ》ときをした。結果、 「原因は乗り物だ!」  と、犯人がわかった。乗り物に乗るとき、たいていの人は疲れないラクなかっこうをするものである。とくに私の場合、視力の関係から酔うことがあり「とにかくラクなように」と、とんでもなく汚いかっこうになる。ここまでいかずともほかの人だって多かれ少なかれこんなもんだろう。  22分はやく着くかどうかより、疲れない乗り物ができれば、世の中、もっとロマンスの機会が多くなるにちがいない。エマニエル夫人だって機内セックスはラクなファースト・クラスだったではないか。 パソコン  はじめてパソコンで原稿を書いている。誌面では伝わらないだろうが、書きながらとても腹を立てている。 「うるさいっ!」  と今どなった。 「こんなもん、買うんじゃなかった」  と今、机をたたいた。たたいてから天井を見、窓を見、ひたすら歯をくいしばる。腹立ちをなんとか抑えようと。だが、画面に目をもどすなり、腹立ちは前にもまして大きく、二日酔いの嘔吐《おうと》感のごとく胸いっぱいにこみあげてくる。 「う、う、うるさいっっっっ!」  ふたたび叫ぶ。パソコンのモニターの首を絞めてやりたくなる。 「こいつよ、こいつ! こいつをなんとかしてよ!」  指で画面をぎりぎりと押さえつける。私の指の下にあるもの、それは「−」である。文章作成のさいに「今、ここからですよ」を示すこの「−」が、このカーソル先頭位置を示すこの「−」が、チカチカチカチカ点滅しやがってカンにさわるったらない。 「−−−−−−−−−−−−−−−−−」  右の一列をじーっと見てみよ。いらいらするであろうが。まるで、 「早く、早く、早く」  と背中のすぐ後ろで編集者に追い立てられているようであろうが。 「わかったから。書くから。書いてるから。だからじっとしてて……。ああ、お願い……、一生のお願い……」  と泣いて頼みたくなるであろうが。私は今そうしている。  ほかのパソコンがそうであるように、私のパソコン(マック)もいろんなことができる。かしこい。おそれいる。しかし、なんで「−」をじっとさせておくという簡単なことができないのか。  それともほかの人はこのチカチカが気にならないのだろうか。パソコンを買うにあたり、大勢の人にアドバイスを乞《こ》うたけれど、だれひとりとしてこの点を教えてくれなかった。つくづく盲点だった。それともこのいらいらは、大学入試のとき、北風がきいきいと窓枠をきしませる音が気になって気になってマークシートの塗りつぶしに集中できなかった私の個人的な性格によるものなのだろうか。  想像するに、パソコンを買った人の数だけこうした|個性的な盲点《ヽヽヽヽヽヽ》があるにちがいない。そして困ったことに、実際に使ってみないと(ショールームなどで試しにちょっと使うのではなく)その盲点がわからないということである。だから盲点たる所以《ゆえん》なんである。  そういえばワープロが発売されたばかりのころも、なんやかやと腹を立てていた気がする。腹を立てながらなけなしの金をはたいては新機種を買っていったものだ。ああ、かくして経済は成立するのだろうか。 ハンバーグ・ライス  はじめてハンバーグ・ライスをごちそうになった芸能人こそ山田康雄さんであった。  東京に住んでいるということはどういうことか、まっさきに田舎者が思うこと、それは、 「東京に住んでいると芸能人に道で出会うかもしれない」  である。中学時代、同級生が東京に転校することになり、私も、他の生徒も、 「まあ、お別れするのはさびしいわ」  を言う前に、まず、 「わあ、東京。芸能人に道で出会えるね」  と叫んだものだ。そういうものなのだ。しかし、実際に東京に住んでみればわかるように、そんなめったやたらに芸能人に遭遇するわけではない。たんなる芸能人ではなく、自分がファンである芸能人となると、もっとチャンスは少ない。  私は山田康雄さんのファンであった。大学一年のときに渋谷の公園通りでバスに乗ろうとして、列の前が彼であった。どきどきしてなにも言えなかった。 「なにか話しかければよかった。握手してもらえばよかった。今度会ったらぜったい握手してもらうわ」  バスから降りて、私は連れの友人に言った。友人は、 「今度会うってことはもうないさ」  ハハハと笑ったのだが、三年後、私は四谷三丁目の交差点で、ふたたび山田康雄さんとぶつかったのである。 「失礼。あ。あっらー、ルパン」  ぶつかったはずみがあってか、どうしたわけか、そのとき私は峰不二子のものまねをして話しかけるという大胆ワザまでをやってのけた。今ふりかえっても、なんでそんな大胆なことができたのか謎《なぞ》だ。  康雄さんは私のものまねを評価してくれたのか、立ち話になり、いっしょにタクシーに乗って新宿へ行った。新宿アルタで歌謡番組の司会をしていた康雄さんは番組の収録のため新宿へ向かうところだった。 「時間があるからいっしょに飯でも食おうや、フジコちゃん」  光栄にも彼は私をフジコちゃんと呼んでくださり、当然のことながらその声はルパンそっくり、って、まったく当然のことを言っている。康雄さんにフ〜ジコちゃ〜んと呼ばれると、ほんとに自分の姿かたちが不二子になったような気になった。気になっていたのは本人だけだったと思うが。  タクシーを降りてアルタまでの道をすこしだけ、腕を組んで歩いた、とっておきの、宝物のような思い出……。ルパンは突然にいなくなってしまった。  奇遇だろうか、私が声に恋したはじめての男性、アレックス・マンディ(スパイのライセンス)の声役の城達也さんも、ほとんど同じ日に亡くなった。CMでは今でもふたりの声が流れる。声は内耳にしみこみ、胸がせつなくなる。ご冥福《めいふく》を心より祈ります。 ピ ザ  はじめてピザを食べたのは一九七三年である。中学生だった。同級生のトモヨちゃんとキヨミちゃんといっしょに食べたはずであるが、メンバーについては記憶に自信がない。仲のよい同級生が何人かいたのでイベントによって顔ぶれには若干の変化が生じる。  ピザなるものを食べる、というのはまさしくイベントであった。我々中学生はラジオ番組でピザなるものを知った。  当時の中学生は社交の常識としてラジオを聞いていた。若者がもっとも憧《あこが》れる職業の一つが深夜放送のDJだった時代である。我々の住居区域だと『パックインミュージック』と『セイヤング』がうまく入らなかったため、我々は専ら京都放送を聞いていた。京都放送の長時間深夜番組がはじまるちょっと前の時間に『サンマルコからボンジョルノ』という短い番組があった。小杉正義という人がホストをつとめる、スポンサーとタイアップした番組である。スポンサーは『サンマルコ』である。ここがピザの店なわけで、この番組にリクエストはがきを出すと抽選でご招待券が当たり、当たったので我々はピザを食べに出かけたのだった。 『サンマルコ』は、たしか河原町通りに面したところにあったと思う。今もあるのだろうか。結局、この一回しか行かなかったので場所をすっかり忘れてしまった。今でも営業していたらもうしわけないが、 「なんやこれ。まずい。くどい。変な味」  と、トモヨちゃんは食べるなり言った。 「胃がムカムカしてきた」  とも、トモヨちゃんは言った。『サンマルコ』さん、すみません。トモヨちゃんに責任をなすりつけてしまおう。トモヨちゃんが言ったのだ。私が言ったのではない。トモヨちゃんはチーズとピーマンが嫌いなのだった。これではピザに対し、こう思うのも無理はない。私とキヨミちゃんはまずいとは思わなかったものの、すごくおいしいとも思わなかったのだと思う。トモヨちゃんの意見に異論を唱えることをあえてしなかったのだから。なんにせよ、まだまだピザというものを食べなれない時代だったのである。  今ではピザを食べることがよくある。当時とはまったく反対の意味で、好きなわけでもないが嫌いなわけでもない。つまり、あまりにあたりまえな食べ物すぎて、好きだとか嫌いだとか考えない対象物になってしまったのである。げに日本食品文化の流れのはやさよ。  ただ、ピザを前にすると、フォークが添えられてあっても私は手で取る。手で取らねばならぬと思ってしまう。 〈アイビー派もジーパン派も、キュートな彼女も美人のあの子も、この店では気取らな〜い、気取らな〜い〉  といったようなコピーが件《くだん》のラジオ番組でよく流れ、 〈ピザは手で食べるのがかっこいい〉  と、教えられたためである。思春期の肉体がおぼえたことは骨身につくのね。 ビンゴ㈰  はじめてビンゴで電化製品が当たった。くじ運のまったくない私は、とりわけビンゴには運がなく、まずリーチにならない。粗品(全員配給)をもらうだけというのが常だった。「ビンゴで一等や二等をとる人ってのはね、たかがビンゴくらいで人生の運を使いきるような人よ」  と、いつも憎まれ口をたたき、一等や二等を当てた人にいやがられていた。それが電化製品である。しかもビンゴ大会の主催はS学館の忘年会である。なぜ「しかも」なのかというと、S学館の仕事なんか私は一回もしたことがないのに忘年会だけ参加したからである。 「ねえねえ、漫画家がいっぱい来る? 永井豪先生も来る? 相原コージ先生も来る? ほんと? 行きたい、行きたい。サイン欲しい。行かせてー。お願いー」  と、手を合わせて頼みこんでの参加だったのに家電が当たるなんで、いやー、もうしわけない、と思いながら賞品を受け取りに行くと、 「いやー、どうも」  司会者も言う。 「うむ、これは」  司会者の表情を見てピンときた。ピンときたとおり、家電というのはバイブだった。手を合わせて�行かせて�と頼んだ甲斐《かい》か。すっごくくだらないシャレだが。 「なに、バイブが当たったって? 見せて見せて」 「どんなの? どんなの?」  たちまちに人々はその賞品を取り囲み、封を切り、電池をセットし、スイッチを入れ、てんでにさわりまくった。 「わー、動く動く」 「ビーン、ビーンて振動してる」  みどり色の、おそらく初心者用とおぼしき、小さなタイプのものを、人々は嬌声《きようせい》をあげながらさわりまくった。 「あ、あ、あー」  制止する暇もなく、私は、せっかく当てた賞品があまたの人の手から手へと移動し、さわりまくられるのをただ見ているしかすべがなかった。  それでも私は、いっぱいの指紋がついたであろう自分の賞品を家に持ち帰った。 「こんなバイブ、だれが使う気になるか。バイブは処女にかぎる」  理由なき憤慨がおこった。しかし、 「これを捨てる場合、燃えないゴミだろうな」  とも考えた。暮れとあって「燃えないゴミ」の収集は終わってしまっている。しかたがないので、もとどおりケースにしまって袋に入れて、棚に置いた。 「もし帰省の新幹線の事故で私が不慮の死をとげ、だれかが遺品の整理をしにきてバイブを見つけたとしても、お願い! 信じて! 使ってないんだからね! 私は一回も使ってないんだからね!」  と祈りつつ。 ビンゴ㈪  はじめてビンゴでバイブが当たった話のつづき。  じつはこのバイブを、私はまだ持っている。そして使っている。  使用感を綴《つづ》る前に、まず、このバイブの詳しい形状を綴ろう。  全体的には楕円形である。蛇の卵のように細長い楕円形。細長い楕円形の形容として、なぜ「蛇の卵」などという気持ち悪い名詞を持ち出してくるかというと、昔読んだ古賀新一の漫画が強烈に印象に残っているからだ。古賀新一は今では『エコエコアザラク』で知られているが、昭和四十年代に「週刊マーガレット」に怪奇漫画を描いていた。そのなかに主人公の少女が卵をお土産にもらうシーンがあって、「まあ、卵だわ」と最初は喜ぶが、「でも、なんでこんなに細長いのかしら」と訝《いぶか》しんでいると、ペリッと殻が割れて蛇が孵化《ふか》するのである。怖かった。以来、私の頭には「細長い楕円形=蛇の卵」という式ができあがったという、そういう蛇の卵の形をしたバイブである。色は緑色。スイッチを入れるとビ〜ンと振動し、ダイヤルで強さが調整できる。これを挿入しても気持ちいいとはとうてい思われぬ物体である。暮れに棚に置いたまま、その存在を忘れていた。  だが、先日の生理日に、私は使用した。オナニーをしたのではなくて痛みどめに使用したのだ。生理時に腰が痛くなる感覚は生理の重い女性にならすぐにわかると思う。あれは腰が「こる」という感じではない。全体にずずーんと重く痛い。「こる」という感じだと、指圧したり揉《も》んだりしてほしくなるが、生理時の腰痛は、なにか拡散してほしくなる。 「ハッ」  私はバイブのことを思い出し、 「そうだ、あれを腰の下に敷けば!」  布団に横臥《おうが》し、スイッチを入れた。うーむ、いい塩梅《あんばい》だ。痛みがほぐれるではないか。  膝《ひざ》の関節が痛むときにも使用したところ、これまたすごくいい塩梅である。鬱血《うつけつ》した膝がやすらいでゆく感じ。五分ほども膝に当てていると足全体がリラックスする。 「こいつぁー、便利だ」  肩こりには、押す力がないため役にたたないが、|だるさ《ヽヽヽ》をほぐすのには効果大。ワープロ作業後、親指の付け根に当てててもいいし、土踏まずに当てるのもいい。  というわけで、私はバイブを本来の目的以外の目的で使っている。ただ、昼間にふと寝室に入ったとき、 「あーあ」  という気分にさせられるのは否めない。一人暮らしの女のベッドの枕《まくら》もとにバイブがごろんところがっている構図というのは、どのような目的に使用していようとも、たいへんわびしい。とりあえずこのページを拡大コピーしてバイブの箱に添付しておこうと思う。不慮の死をとげても、せめて誤解のないように。 (単行本特典・後日報告……結局、捨てました。「燃えないゴミの日」に。) ファンデーション  はじめてファンデーションをつけて外出したのは大学生のときである。その日の第一講義中に顔がつっぱってき、第二講義中ともなるとむず痒《がゆ》くなってきた。その上、 「皮膚呼吸を妨げられている!」  という苦しい気分が、顔のみならず全身にみなぎってき、第三講義が始まる前にトイレで顔を洗ってしまった。  一般に男性はファンデーションをつけたことがないと思う。おしろいのことであるが、おしろいには二つある。練りおしろいと粉おしろい。練りおしろいのことをファンデーション(略してファンデ)、粉おしろいのことをパウダー(あるいは|おコナ《ヽヽヽ》)と、女の子業界では呼ぶ。練りおしろい、というくらいだから皮膚に密着するわけで、そばかす、顔色の悪さ、にきび、等々を隠して肌の下地を作り、ファンデが汗でくずれないようパウダーをはたくシステムになっている。この説明で、ファンデをつけた私が「苦しい」と思った心情を察していただけるだろうか。ほんとに苦しいものなんである。  そんな苦しいものとも知らず、小学生のころから私は早くファンデをつけたくてならなかった。その理由は、小学生にして目の下にクマがあった(常時)からである。 「なぜ私は目の下が黒いのだろう」  鏡を見るたびにげんなりし、垢《あか》かとも思い、歯磨き粉をつけて歯ブラシでこすったこともあった。もちろん、ひどいザマとなった。やがて、書物等からの情報により、 「ヒトの表皮の厚さには個人差があり、薄いヒトは血脈が透けるために、目の下は常時クマができているように見える」  ということを悟ったのだが、これを認識している教師の数はきわめて少なく、目の下のクマは、私をして教師たちに陰気な印象を与えていたのだろうと思う。よく通信簿に「暗い」と書かれたものだ。もちろん他の要因もあったのだろうが、小学生としては、 「クマさえなかったら」  と思い、ファンデを早くつけたかった。念願かなって化粧ができる年になったというのにファンデは苦しいものだった……。  それに皮膚の薄い者はファンデをつけると、肌の質感がものすごく変化するため、やたら厚化粧に見える。そのうえ、笑ったりしゃべったりしているうちに、筋肉の動きの軌跡がシワと化して刻まれる。これを女の子業界では、 「ファンデがよれる」  と表現し、化粧品会社に技術を競って防いでもらいたい難点の一つである。目下のところ、この|よれ防止《ヽヽヽヽ》については、長いあいだファンデに憧《あこが》れていた私のオリジナルな回避法を女性読者に教えよう。どうするとよいか。答え。ファンデをつけないこと。これなら完璧《かんぺき》である。ぜひ試してください。ぜったいよれないから。 複 乳  はじめて自分が複乳だと知ったのは、産婦人科で乳|癌《がん》の検診を受けたときである。 「緊張しないでいてくださいね」  と、温厚そうなお医者さんは私の胸を検診し、腕の付け根あたり、脇《わき》から胸へちょっとずれたあたりを触って、 「ああ、これは複乳ですな」  と言ったのである。そういや乳房の斜め上にごくうっすらとした乳首があり、うっすらと膨らみがある。デブだからだと思っていたが、これは複乳だったのか。 「な、な、な、なんということだ!」  ワナワナした。  複乳という語は前より知っていた。どこで知ったかは記憶がない。出所《でどころ》はともかく私なりの知識を要約すれば、 「哺乳《ほにゆう》類の雌は本来が複乳である。ホモサピエンスは進化するうちに二対の乳房になったが、まれに本来の複乳状態を如実に、あるいは希薄に露呈している女体がある」  というもの。  複乳で有名(?)だったのが、今は姿を消してしまったタレントのシェリー。彼女の身体には、いわゆるフツーの乳房があって、フツーの乳房の乳首の下部五センチほどのところに、ちょん、ちょんと小さな乳首がある。ビキニ水着の写真には、その乳首が映っている。 「これがミニバストなのよ」  バラエティ番組かなにかで、たしかシェリーは笑いながら自分の複乳を指さしていた。TVを見ていた私はシェリーをうらやんだ。当時、ティーンだった私は、 「なんとか複乳になりたい」  と、強く憧《あこが》れていたからである。なぜか。原因は吉行淳之介である。  私は吉行淳之介に会いたくて上京してきたと言っても過言ではない。吉行淳之介のそばで寝起きしたくて現住所の私鉄沿線を選んだくらいである。  その吉行淳之介がエッセイの中で、 「ああ、複乳の女とヤってみたい。複乳とはなんとエロティックな女体だろう」  というような主旨のことを書いていたのだ。骨の細い女体が好きだといつも書いていた吉行淳之介。私は骨が太い。こんなにあの方を思っていても骨が太い私は彼の好みではないのだと、彼への思いが絶大なるがゆえに嘆き悲しんだ。高校生だったのでごく単純に、ある意味ではピュアに、嘆き悲しんだ。 「骨太でも、せめて複乳だったら……。せめて複乳だったら、すずめの涙ほどの好意を抱いてくださるかもしれぬものを……」  そう思い、セーラー服の袖《そで》を毎日、涙で濡《ぬ》らしたものだったが、まさか本当に複乳だったとは。  知ったときにはもう遅い。我が複乳にふれもせで(あたりまえだが)、吉行先生は逝ってしまった。吉行先生、大好きでした。 ブルセラ  はじめてブルセラについて書いたとき(前項「下着買い取り業」参照)はまだこの語は世間では有名ではなかった。それが今や現代用語の基礎知識である。ブルセラ女子高校生にスポットを当てた記事が、なんとたくさん出たことだろう。  ふしぎだ。ブルセラ女子高校生よりスポットを当てるべき人々がいるはずなのに、その人々にはちっともスポットが当たっていない。それは誰かというと、 「ブルセラ女子高校生を支える人々」  である。  なぜ女子高校生は自分のはいたパンティを売るのか?  答え。売れるからである。  なぜ女子高校生はニキビができやすいか、という質問ならば、その答えは、ヒトの成長の一過程として♀は高校生のころがもっとも肌がアブラ性だから、ということになり、「自然現象」という表現もできよう。しかし、べつに♀は高校生の時期になると、自分のはいていたパンティを売りたくて売りたくてたまらなくなる習性があるわけではない。  自分のはいていたパンティを買う人々がいるから売るのである。  これは資本主義経済の基礎中の基礎である。需要と供給。demand/supply。『試験に出る英単語』にも出ている。74。受験生にラーメンの夜食を持ってくるお母さんのイラスト付きだ。  もし、「女子高校生が授業のノートをとるさいに出した消しゴムのカス」を高い値段で買う人々がいたとしたら、彼女たちは消しゴムのカスを集めて売るのである。なかには、べつに書きまちがえずともわざと消しゴムを使用して、売る女子高校生もいるだろう。お風呂《ふろ》にはいりたいのをガマンしてわざとパンティを汚して売る女子高校生がいるように。  つまり、買う人がいなければブルセラは成立しないのである。 「いくら高く買ってもらえるからといってはいていたパンティを売るなんて、恥じらいというものがないのかしら?」  などと眉《まゆ》をひそめたって、パンティを買う人がいるのだからパンチに欠けるよ。 「旺文社模試で全国ベスト8内で、週一回はボランティア活動で寝たきり老人の入浴介護をしている女子高校生の成績表とボランティア活動証明書なら、俺《おれ》は三十六万円で買うよ、いひひひひ、ハアハア」  という人がたくさんいたら、彼女たちはせっせと勉強してせっせと老人ホームを訪問するよ。需要と供給。なんで需要側の人々のことをみんな忘れているのかねえ。  そいでもって需要側の人々に言っとくけど、私もかつては女子高校生だったので言っとくけど、「少女」に過大な幻想を持つのは無益ですから。とくに男兄弟ばかりで育った人へ。少女なんていませんから。女は生まれたときから女であって、小学生のときからドロドロでスケべですから。 ベジタリアン  はじめてベジタリアンを間近に見たのは飛行機の中である。  スウェーデンからの帰り、私の隣の座席にベジタリアンがすわった。男性であった。  三十五歳くらい、金髪で180�・70�の中肉中背、丸顔、目はブルー、眼鏡なし、国籍はアメリカのべジタリアンである。  彼がベジタリアンだとなぜわかったかというと、食事のさいに、 「私はベジタリアンなので、サラダのようなものを用意してくれないか」  と、スチュワーデスに頼んだからだ。全日空+スカンジナビア航空のサービスのぬかりなく、彼のテーブルにはレタスとトマトが盛られた容器が運ばれてきた。彼はもくもくとベジタブルを食べ、私はもくもくと照り焼きチキンを食べた。 「よく野菜だけで食事できるなあ」  ほとほと感心して、私は横目でベジタリアンを見ていた。  私も野菜は好きである。平均以上に好きではないかと思う。大大好きかもしれない。それでも、野菜だけをおかずにすることはできない。 「よくベジタリアン道を貫けるものだ」  ほとほと感心する。生まれたときからの宗教・文化・風習により、野菜しか食べない人はともかく、成人してからベジタリアンに転向するというのは、どんなものなのだろう。  なにがしかの病気でしかたなく、というのならわかるが、なにがしかの思想でベジタリアンになるというのは私には、ただただ驚きである。  だって、どのような思想を持とうとも、私なら空腹時に焼き肉のにおいを嗅《か》いだら焼き肉が食べたくなるのだもの。  鮎《あゆ》が解禁されれば鮎が食べたくなるし、鮑《あわび》が解禁されれば鮑が食べたくなるし、新鮮なローズマリーを入手したら子羊が食べたくなるし、黒豚のいいのが安売りされてたら芥子《からし》と酢をベースにしたオリジナルの和風たれで食べたくなるのだもの。  だってだって、食べるってことは私にとって最大最高の命を賭《か》けたエンタテイメントなのだもの。さあ、今日はなにを食べようか、それだけを考えて朝、起きるのだもの。それなのに、毎日、毎食、野菜だけだなんて、 「よく、そんなことができるなあ」  と、はなはだ不可思議なのである。隣のべジタリアンに疑問をぶつけようとしたがなんとなく失礼な気がしてやめてしまった帰路だった。  だが、最近、アメリカ在住の友人と電話で話して、多少なりとも謎《なぞ》が解けた。 「欧米人ってさ、舌が鈍感なんだよ。大味なの。だから腹にさえたまりゃあ何だっていいんだよ」  友人は私のベジタリアンへの疑問に対してこう答えたのだった。ベジタリアンはすこぶる頻繁に放屁《ほうひ》するとも、友人はつけくわえていた。ということは、ポール・マッカートニーもマドンナもマイケル・ジャクソンも、おならを|しいしい《ヽヽヽヽ》、世界ツアーをこなしているのだろうか。 ベスト・ジーニスト賞  はじめて「ベスト・ジーニスト賞」なるものが設定されたのは一九八四年である。ジーンズが似合う人、上手に着こなしている人、に与えられる賞ということで、 「うーん、これはユニークな賞だ。そうだなあ、だれが似合うかなあ、ドキドキ」  と、私はたのしみに結果を待っていたものだ。あの賞がはじまったばかりのころは。  だが今では、だれが選ばれたのか知らないし、知ろうという気すらない。なぜなら、選ばれるのは、 「ただたんに、その年に活躍した人」  だからである。当初の選考基準であった「ジーンズが似合う、着こなす云々」の要素とは無関係に、ただただ、その年に人気のあった芸能人が選ばれる。たとえば木村拓哉。もう三年連続のべスト・ジーニストというが、どうも私にはこの人とジーンズが結びつかない。「スケボー・パンツがよく似合う魅力的な青年」であって「ベスト・ジーニストだろうか???」と首をかしげてしまう。観月ありさもそうだ。日本的な愛くるしい顔とすくすくと成長した四肢は「ミニスカートがよく似合う魅力的な女性」であって「はてジーンズ姿はどんなだったけかね???」と、やはり首をかしげてしまう。  そして、さらに思いは「ベスト・ダイヤモンド賞」なる賞へと及ぶ。こちらはダイヤモンドが似合う人に与えられる賞で、田村亮子選手や草刈民代が受賞している、これまた「?」な賞である。柔ちゃんはオリンピックでよくがんばった。草刈バレリーナは映画できれいに社交ダンスを踊った。 「その活躍を評してダイヤモンドを贈りましょう」  では、なぜいけないのだろう。これをなんでまた「ダイヤモンドが似合う賞」と設定しなければならないのだろう。 「それだと、たんに人気投票になって、各賞のオリジナリティが出ないから」  であろう、と説明してくれた知人がいたが、となるとまた私の「?」はふりだしに戻るのである。ベスト・ジーニスト賞をユニークだと思った私は、 「活躍ぶりや人気ぶりもいくぶんは反映させているものの、ジーンズの着こなしに的を絞って選ぶ」  という点こそユニークだと思ったのである。ならば、もっと各々の賞の「らしさ」を出した人が毎年選ばれてもいいのに、ただたんにその年に人気のあった人が選ばれているだけの結果となっている。残念なことだ。  しかし、大衆(マス、マクロ、メジャー)というものはそういうものなのかもしれない。細かいことにこだわらない、深く考えない、読まない、聞かない、おぼえないですぐ忘れる。この感性があらゆるものの「人気」を支えてゆくのかもしれない。 「人々は、語ることもなくただしゃべり、聴くこともなくただ聞く」  かつてポール・サイモンは作詞していた。サウンド・オブ・サイレンス。 部 屋  はじめての部屋というのは寝つきにくい。  このたび引っ越ししたマンションはとても古い。築二十七年。しかし、広い。広い。広い所に私一人だ。カーテンもまだなく、ダンボールががさがさ積み上げられた部屋である。落ちつかないことこのうえない。  ところで。私は美人で才能があってカズノコ天井で妙齢で料理がプロ級にうまくて心がやさしい(友人を失う放言)。こうした女であれば、 「ねえ、慣れない部屋で落ちつかないから泊まりにきてくれなァい?」  と、電話する男の一人や二人いてもいいのではないだろうか? なにも婚約者とかステディでなくていいのだ。カジュアルなボーイフレンド。それぐらいいるのが自然なのではないだろうか? 「いない! ひっとりもいない。零。ゼロ。0。0になにをかけても0だ」  私はアドレス帳を見ながら、つくづく自分の現状を噛《か》みしめた。そこで男などふりきって女に電話すると、みんな、子供がいるから泊まりにはいけないと言う。 「男もいない。友達もいない」  そんな気分になってきた。秋の風がひゅうと音をたてて吹いている感じがしてきた。  そこで、ナムコ遊園地のときと同じく、最後の頼みの綱は編集者である。  つごうよく某編集者から電話がかかってきた。部屋に慣れないのでお泊まりください、と頼んだところ、 「えーっ、いやだよー!」  にべもなく言われる。編集者その二、その三、その四、その五もオールアウト。  ドラマや小説やラジオや映画や、つまり世間では、男は女の部屋に行きたがる。だが私はいやがられる。なんと不条理。 「こうなったら編集長に頼んでやる」  もっと積極的に依頼の電話をしよう。  日本屈指の文芸出版社Bの某雑誌の編集長Hさんに、なにとぞお泊まりくださいますよう、と頼んだところ、 「許してください」  と、言われた。 「断ったことを週刊誌の連載に書いてもいいから」  とまで言われた。  ねえ、いったい私がなにをそんなにヒドイ申し出をしているというのだ。ただ、気軽に遊びに来てムダ話して眠ってってくれと言っているだけではないか。 「警戒するよ。泊まってって、なんて言われたら男は怖がるよ。あたりまえだろ」  後日、宿泊を断った男から諭されたが、警戒するって、いったい何を警戒するっていうわけ? 警戒するなんて、それこそ凄《すさ》まじきゴーマニズムだと思うんだけど。 〈追記・業界各位様/B社のHさんというのはハナダさんではありません〉 ヘンタイ電話  はじめてヘンタイ電話に応じてしまったではないか。 「もしもし、どんなパンティはいてる?」  というふうなことを話しかけてくる電話を、巷間《ちまた》ではヘンタイ電話とかワイセツ電話とかと称する。こうした電話には無応答が最良の方法である。 「やめてくださいッ」 「ばかッ」  などと怒って切ると、相手はうれしくてならないのである。おおむね、再びかかってくる。ヘンタイ電話と判明したら受話器を置いたまま放っておけば、まもなく切れる。まず切れる……んだが、昨夜のヘンタイ電話はこの手が通じなかった。私がコピーをしているところにかけてきて、根気よくしゃべる人だった。  私の電話機は所ジョージがCMしている商品である。受話器を持たぬ手ぶらの状態で相手の声が聞けるというやつである。 「ねえ、こんな夜遅くに一人でさびしくない? ぼくといやらしいことしようよ」  相手はしゃべっているのだが、私の両手は自由なので、コピーのつづきをしていた。たぶん、先方にはコピーの作動音のみが微かに聞こえるだけだろうに、 「恥ずかしいことばを言ってあげようか」  と、一人勝手にしゃべるのである。先方の「恥ずかしいことば」なるものの種類はあまり多くなく、繰り返している。 「クジ運の悪いヤツめ」  私は思った。たまたまプッシュした相手が小説家なんである。先方の「恥ずかしいことば」なんか、ただの仕事用語なんである。なんでまたこの人はたまたまプッシュして私なんかに当選するんだろうね。この人が「恥ずかしい」と判断していることばなんだから、この人にとっても「恥ずかしい」思いでしゃべってるのにね。そして、「まあっ、恥ずかしい」って感じてくれる女性のほうが、たぶんずっと多いだろうにね。クジ運悪いよね。  ふと人生の無常を感じていると、先方の息が荒くなりはじめた。 「ねえ、ぼくならきみを満足させてあげれる……オマンコ舐《な》めれる……きみの顔にザーメンかけれる……」  彼のそのことばは私の胸にいたくひっかかった。私は思わずコピーをとめて、受話器を持った。  応じるべきではない。ヘンタイ電話なんかに応じてはいけないと自分に言い聞かせたが、どうしても抑えられなかった。がまんできなかった。 「それを言うなら、オマンコ舐め|られる《ヽヽヽ》、ザーメンかけ|られる《ヽヽヽ》、でしょう!」  すごく正しいことを言ったのに、いきなり電話は切れてしまった。ちょっとー、切るなよなー。 〈食べれる、飲めれるコンビニエンス〉ってCM、やめてほしい。 ボウリング㈰  はじめてボウリングをしたのは小学校五年のときである。万博ブームのころであった。ボウリングもブームであった。あちこちの田んぼがつぶされ、のきなみボウリング場が作られていた。後年のプールバー・ブームなどメじゃない勢いであった。  日曜日の夜七時半からのTVも、『サインはV』から『美しきチャレンジャー』に変わっていた。前者はバレーボールに青春をかけた女性の物語(主演・岡田可愛)で、後者はボウリングに青春をかけた女性の物語(主演・新藤恵美)である。  前者の見せ場の一つに「X攻撃」というのがあったが、後者の見せ場の一つには「左右に二本、間隔をあけてピンが残ってしまったときでも確実にスコアをとれる変化球投げ」というのがあった。なんというネーミングだっただろうか。  魔のオタク系記憶力を誇る私がころりと忘れているのは、主演の新藤恵美のせいである。ある種の男性諸氏にはやんやの同意を得られると自信があるが、彼女は実にエロかったのだ。ボウリング用のタイト・ミニに包まれた量感のある尻《しり》と、ぴっちりしたシャツに包まれた小さめの乳房。そのくせ、ぴっちりしたシャツゆえに浮き出る乳首は大きく尖《とが》っている。  そして、あの勝気そうな三白眼とぽってりと濡《ぬ》れたような唇。ああ、こんな描写をして、このページがフランス書院のページになりそうなくらい、パラドックスなエロが凝縮された新藤恵美であった。  小学校五年女児は、この新藤恵美のエロさにすっかり目を奪われ、物語の展開が頭に入ってこなかったのである。  そういえば『サインはV』においても、岡田可愛|扮《ふん》する主人公のライバル役である中山麻里の、犀《さい》の角《つの》型の外開き乳房に目を奪われ、番組後半は彼女の胸ばっかり見ていた前歴があったのだった。  中山麻里は、バストそのものもよかったが、バストからウエスト、ヒップへとつながる、その曲線がすばらしかった。さすがはクォーター、きっすいの日本人にはまずいない、みごとな8の字を描いていた。  小学校の同級生はみな、『サインはV』についても『美しきチャレンジャー』についても、私の興味とはちがうところに関心があるようで、 「なんで? 私ってなんでこんなにイヤラシイ人間なの?」  と、ひそかに悩んでいた。女と女の裸ばかりに性的な興味を抱く自分が、 「どうしよう。私は実は男なのではないだろうか。どうしよう、どうしよう」  という恐怖感もあった。  内心ではイヤラシイことばかり考えつつ、表面的には明るく勉学優秀な小学生児童の役割を引き受けて、私はボウリングをおこなった。視力が0・1を切りはじめたころだったのに無理して眼鏡をかけていなかったため、ピンがまったく見えず、ただただあてずっぽうに球を投げていた。球はとても重かった。 ボウリング㈪  はじめてボウリングに行った日、小5の私は白いタイトのミニスカートをはいていた。上は紺のTシャツ。このいでたちは、我ながらよく似合った。  さて、ここで急に文章講義をする。気のきいた文章を書くてっとり早い秘訣《ひけつ》は『自分がピエロになる。自分の欠点を情容赦なく書く』である。逆に読み手の強い反感を買うのは『自分の欠点を書いたようでいて、実は自慢話になっている』である。  前者例〈ドレスアップしてデートにでかけたのにおならをした〉。  後者例〈美容院でいつも注文がうまくできないドジな私。先日もロングヘアの毛先だけをそろえに行ったのに、美容師にKYON(2)に似ているとか言われて無理矢理ショートにされてしまった、トホホ〉。  よって前者と後者を考慮したのちに得られる、一枚上手の文章技法は、 「自慢話をしたようでいて、実はピエロになっている」  となる。  で、ミニスカがよく似合ったのは、私の脚が長かったからである。腕も長かった。小5なのでまだ肉もついておらず、脚も腕もすらりと長かった。知り合いのイギリス人宣教師からもらった欧米サイズの服がぴったりなほど。それでいて小5とは思えぬ思慮深い顔つきをしていた。これでレーンに立つと、じつにサマになった。 「いやあ、ものすご上手そうに見えるで」 「ほんまや、中山律子みたいやわ」  同行者の老若男女からも言われた。 「さあ、投げてみ」  同行者の成人男子が、ボールを持ってきた。 「これぐらいの重さでちょうどええやろ」  彼は私の手を見てボールを渡した。7ポンドあたりの、赤いボールだった。 「指も節《ふし》が張ってのうて、長いんやなあ」  途方もなくうれしいことを、彼は言ってくれた。そして、たしかに私の指は節というものがまったくないといっていいほどすらりとまっすぐなのだった。  私はボールを受け取った瞬間、不吉な予感を抱いたが口には出さず、第一投を試みた。どかん。大きな音をたててボールは、前にではなく後ろに落ちた。つまり、投げるべく、いったん後ろに振った手からボールが落ちたのだ。 「わはははは。せっかくファッションはキマってるのに何してるん。本ばっかり読んでるさかい、運動は苦手なんやな」  同行者たちはいっせいに笑った。私は黙っていた。ボールが落ちた理由は運動神経によるものではない。ボールの穴に指が入らなかったのだ。そうだ。脚が長く腕も長く指も節くれていなかったけれど、私は押しも押されもせぬ天下の骨太なのだった。女・子供用の軽量ボールは穴が小さい。指を入れると抜けなくなりそうで、恐怖心からほんの少ししか指を入れられず、そのためにボールを後ろに落としたのだった。 「指輪のサイズは15号です」  と、最大の恥をさらすよりも、運動神経が悪いと笑われるほうがずっとマシであった。ボウリングなんか、ティファニーなんか、嫌いだい。 ボクシング  はじめてボクシングを見た。といっても実際にではなく、TVを通してではある。  TVででも、私はボクシングを見たことがなかった。途中の何分間かを見たことはあっても、試合の始まりから終わりまで見きったことがなかった。  これはボクシングにかぎったことではなく、スポーツの試合というもの全部についてあてはまる。自分がスポーツをするのは好きだが、TVの前でじっとして観戦するのが好きではない。嫌いに近い。たぶん私は集中力というものをいちじるしく欠いた性格なんだろう。  その私がこのたびのボクシングの試合については放映日前から、カレンダーにしるしをつけるにはいたらなかったものの、けっこう期待しているふしがあった。 「だって鬼塚勝也ってかわいい顔してるんだもん」  この理由。この、恥ずかしいミーハーでアーパーな理由。こんな理由で、命を賭《か》けるスポーツであるボクシングの試合放映日を待っているのかと思うと気がひけたが、だが、もしも鬼塚がああいう外見をしていなかったら試合を見なかったと思う。  どんなにミスコン反対派が声を大にしようが、男女雇用機会均等法が施行されようが、世の中というものは凡《あまね》く「外観のデザイン」に左右されるようになっているのではないだろうか。  これは決して「美男がトクをする」「美女がトクをする」という意味ではない。「かぎりなく予想に近い期待に当てはまる外観」という意味である。  たとえば俵万智さんという人がいるが、もし、あの人が身長170センチで顔は前田美波里と大地真央をたしたようでスリーサイズが98・60・98であったら、私は断言するけれども『サラダ記念日』の評価は全然別のものになっていたはずである(とくに中年男性評が)。  というわけだから、モッくんのNGといったデザインの顔の、ボクシング選手にしては二十戦二十勝のせいか鼻がひしゃげていない鬼塚の外見は、なるほど「かぎりなく予想に近い期待」を裏切ってくれないのである。  試合も見ないうちから彼の写真がもう「はぐれた狼」「まっしろに燃え尽きてやる」「明日はどっちだ!」というようなボクシングにつきもののフレーズを語っていそうなんである。  で、試合を見て、当然、鬼塚を応援しているはずなのだが、しかし、なぜなんだろうか。「打たれろ、打たれろ」と願っている自分にふと気づいてしまった。打たれて欲しい。血を流しロープに追い込まれて欲しい。がっくりとうなだれて欲しい。そんな彼の姿が見てみたい……と、知らず知らずに願ってしまっているのだ。  つまり、そういう悲壮感もまた似合う顔のデザインであり、そういう悲壮感がボクシングというスポーツの魅力なのだろうと思われる。 星一徹  はじめて星一徹に共鳴した。  ときは、ある生あたたかい夜。場所は銀座のホテルのラウンジ。  窓の外にはネオンがきらめ|き《ヽ》、テーブルにはキャンドルがゆらめ|き《ヽ》、スローなピアノ曲が甘め|き《ヽ》、私はまたた|き《ヽ》、前にすわる男を見れば0・01の視力では事物全体がぐらつ|き《ヽ》、ぐらつくせいか道徳心がよろめ|き《ヽ》、右脳のすみっこから出てきた悪魔のささや|き《ヽ》。 『さあ、印鑑を押すんだよ。ほら、そこんところに印鑑を押して。タマシイを売り渡すんだ。さあ、契約書に印鑑を押して。大丈夫だったら。さあ、さあ』  と、まあ、前にすわる男にタマシイを売り渡せと勧誘するわけである。 (うううむ……)  私は印鑑を握りしめながらジュースをごくごくごくっと飲み干した。 「おかわりをお持ちしましょうか?」  しずしずと寄ってくるギャルソン。 「それでは同じものを」  前の男が飲んでいたブラック・ルシアンなる酒を注文したところ、ところがである。ここで異変発生。彼が、 「この酒はね、昔つきあっていた女がいつも飲んでいたんだよ」  と、言ったのだ。  私は星一徹のように、ちゃぶ台ならぬ、ラウンジのテーブルを、でえいっ、とひっくり返してやりたくなった。嫉妬《しつと》とかやきもきするとかいった恋愛がらみの感情からまったく外れたところで星一徹の気分になった。ものすごく失礼だと思うと同時に、ものすごく悲しく、ものすごく恥ずかしかった。「この人、べつにここにいるのが私でなくても誰だっていいんだ」という悲しさと「それなのに私はなにを夢みていたのだろう」という恥ずかしさである。 『父ちゃん。父ちゃんが怒るのはあたりまえだぜ』  飛雄馬の顔をした大天使ミカエルと、 『そうよ、そうよ』  明子の顔をしたガブリエルとが私の左脳から飛びだしてきた。 『メフィストさん。決まりましたわ。タマシイを売り渡すなんてとんでもない。どうぞお帰りくださいませ!』  私は悪魔にきっぱりと言い、おしかけていた印鑑を印鑑入れにしまって鍵《かぎ》をかけて鞄《かばん》の一番奥底にしまった。  かたや、前の男は、私が大天使に助けられつつ悪魔とはげしい格闘をしたことも知らず、のんきそうにブラック・ルシアンを飲んでいる。 「ふん」  私は注文を取り消し、かわりに|ワイルド《ヽヽヽヽ》・ターキーにしてもらった。 眉形定規  はじめて「眉形定規《まゆがたじようぎ》」を買い、使用した。  これはなにかというと、雲形《くもがた》定規の要領で、プラスチックシートが眉のかたちにくりぬいてあり、それを眉のところにぴたっと当てれば、 「だれでも簡単・容易に、しかも左右均等に眉を描くことができます」  という商品である。ほんとうは眉形定規などという名前ではないのだが、目下、実用新案登録、意匠登録、商標登録出願中で発売元もがんばっているだろうから、あまりくわしく商品を指さないでおこう。  眉のパターンには、自然なかんじのタイプをはじめとして、女らしいあでやかなタイプと、キリキリっした角張ったタイプなど、九種類ある。  たしかに眉は人の顔の印象を決定づけるアイテムである。よく、 「目は口ほどにものを言い」  というけれども、じっさいには、人は他人の目をたいしておぼえてはいないのだそうだ。探偵会社で尾行をするとき、社員には「変装」の心得として、まず口もとを変えることを教えるという。つけ歯を使ったりする。歯がもっとも人の顔を決定するアイテムで、サングラスはさして変装には用をなさないらしい。  これが真実かどうかはべつにして、事実、サングラスをしているとよけいに目立つ。尾行にこれほど不利なものはないだろう。しかし、目が「まったくもの言わず」かというとそうでもなく、目もとの表情というのは、相対したときにはひじょうに大きく「ものを言う」。しかし、目のかたちそのものはそんなに変化するわけではないから、眉をよせたり、あげたり、しかめたり、こういったことが目もとの表情となる。そこで、眉形定規である。ふだんはまったく化粧をせず、お恥ずかしいことに顔も洗わずに買い物に行ったりするくらいぶしょうな私は、この商品を見つけたとき、 「おや? いけるかも」  と思った。猜疑《さいぎ》心が強いので、 「ふふん。そんなに世の中うまくいくもんですか」  とも思ったが、結局、購入した。そして包装を破り、定規を眉に当てた。そしてすぐに、 「うーん、こんなの、むりだよー。ねえ」  鏡の前で自分の虚像に話しかける結果となった。  じょうずに使いこなせる人も、それはもちろんいるのだろう。でも、私はできない。私が買ったのは「自然なライン」なのだけれど、もともとの眉の毛の流れというのがあるから、どうしたってこの定規のかたちに眉が描けはしないのである。それを強引に定規どおりに描くと、ちっとも「自然なライン」にならないのである。  画家がキャンバスに筆を走らせるとき、ときどきはキャンバスから離れ、全体を見、また戻るように、定規のとおりに描くことばかりに集中していると、 「たしかにとても左右均等だけど、顔からは浮いているわ」  という眉ができてしまう。使いこなせないから眉を描くのにたいそうな時間がかかり、いらいらして、ある日、捨ててしまった。捨てたあとは、いままでどおりの自分流のやり方で眉を描いている。私のやり方のほうがずっと簡単だと思うので紹介しよう。ペンシルではなくパウダーと硬い筆を用いる。そして、左右の眉を見比べてふぞろいな部分(薄く見える部分や毛並みが乱れている部分)だけにちょこちょこっと色をたす。たしたら鏡で顔全体を見て、濃すぎた部分を綿棒で消す。終わり。所要時間10秒。  まあ、眉には流行があるので、そのうちきょくたんに左右ふぞろいなのが「スカーレット眉」とかいって流行《はや》るかもしれない。 『風と共に去りぬ』のポスターのビビアン・リーの眉、ふぞろいだもん。 マドンナ  はじめてマドンナを見た(ビデオで)とき、胸がきゅーんとなった。以後、TVで雑誌でラジオで彼女に出くわすたび、胸がきゅーんとなる。 「そうお? 昔はねー、よかったけどね——。ぽっちゃりしててねー」  えてして人はこう反論する。そして、 「今のマドンナは筋肉質でサイボーグみたいで色気がない」  と、つづける。つまり反論者はマドンナの|悪口として《ヽヽヽヽヽ》�筋肉質�とか�サイボーグみたい�という語を使用する。 「まちがっている!」  と、私は思う。筋肉質でサイボーグみたいであることは私の美意識では、最高の褒めことばなのである。 「まるでサイボーグ」  いい! すばらしい! これこそ正々堂々とした美であり正々堂々とした色気ではないか!  だいたい日本人は卑怯《ひきよう》な美や卑怯な色気を好み過ぎる。情緒に訴えかけられるのを好み過ぎる。おニャン子クラブが最たる例で、彼女たちはみんなかわいらしいと思うけれども、金をとって見せる芸ではないではないか。演技者にしたって同じで、発音も表情もダメな女優が、ある日、娼婦《しようふ》の役をやって裸になる。するととたんに�演技開眼�である。へんなの。まったく日本とは素人を良しとする文化意識の国である。 「高校野球は純粋だからいい。プロ野球はきらいだ」  いまだにこういうことを言う人が大勢いる。なんでプロは不純で素人は純粋なのか? なんでマドンナは色気がなくて田中裕子は色気があるのか?  マドンナは生来の骨格そのものはさして恵まれてはいない。腰の位置も低いし骨盤も狭いために足が短く胴が太く見える。それを一生懸命に努力して毎日トレーニングを欠かさず、ああしてサイボーグのような肉体を築いていった。なんてなんて、いじらしくてかわいい人だろう。なんて正々堂々としたぶりっこだろう。 「マドンナなんて色気ないぜー」  などと得意気に言ってる男を見ると、 「てめえ、その前に自分の腹をひっこめてみたらどうだ。腕に筋力をつけたらどうだ」  と、後ろから蹴《け》り倒してやりたくなる。やーい、やーい、くやしかったらマドンナを犯してみろ、虚弱男めが。やーい、やーい、くやしかったらブリジット・ニールセンを抱き上げてベッドに運んでみろ、非力男めが。やーい、やーい、くやしかったらナブラチロワにテニスで勝ってみろ、この根性なしの素人めが。へーんだ、私なんか空山基さんのイラストの女でオナニーしてるんだからね。あの、情緒に訴えない正々堂々としたエロ。うーん、たまらん! サンマは目黒。エロは論理的にかぎるっ。 南伸坊さん  はじめて南伸坊さんとホテルに行ったら停電になって痴話|喧嘩《げんか》の末の泥酔。  おお、なんという人目をひく一行だろう。なに南伸坊? あの有名なイラストレーターの南伸坊とホテルへ?  と、読んだ人はスキャンダルの匂《にお》いを嗅《か》ぎつけずにはおれない。そこに「停電!」「はじめて!」「痴話喧嘩!」といった暗闇《くらやみ》や密室やドロドロしたものを感じさせる語句がちりばめられている。 「火曜サスペンス劇場・湯けむり殺人事件/桜色の肌は危険なビデオに怯《おび》える・京都から神戸へ不倫の殺人ルート!」とかいった二時間ドラマの挑発タイトルに匹敵するくらいである。だが二時間ドラマはフィクションだが、こちらはノンフィクションであって、冒頭一行には何の嘘《うそ》いつわりもない。  私は本当に南さんと銀座の某ホテルに行ったのだ。そこのティー・ラウンジでコーヒーとオレンジジュースを飲んだ。南さんはコーヒー、南さんの奥さんはカフェオレとレモンスカッシュと紅茶を飲んだ。途中で停電になった。私たちの席は壁ぎわの奥まった一隅で、隣の席の女性が注目をひいた。パンプスを脱いで足を投げ出し、テーブルに俯《うつぶ》して寝ているのである。足元には冷酒の五合瓶が三本。酔っぱらって寝てしまったのかと思っていたら、ボーイさんが、 「お客様、お連れ様はもうお戻りにならないと思いますが」  と礼儀正しい口調で話しかけ、 「何よ、偉そうに言わないでよ。戻ってくるわよ。戻ってくるんだから」  彼女は答えて、また寝る。このやりとりで私は即座に愛のシーンを想像してしまった。きっと彼女は男を誘惑するつもりだった。だが、男はつれない。酒を勧める。自分も飲む。それでもつれない。何よ、あんたなんか、いくじなし。いくじなしでけっこう、俺《おれ》は帰るぜ。あっそ、帰ればいいでしょ。ああ帰るとも。喧嘩別れ。くすん、あんな言い方したけれど、きっとあのヒトは戻ってくる、戻ってくるわ、戻ってきて……と思って彼女は寝てしまったのに違いない。なんてひどい男だ。女がこんなに泥酔するほど必死で誘惑しているのに。なんて残酷な男だ。いったいどういう奴《やつ》だろうと思っていると、 「ここのおっさん、どこ行ったのよ。〇〇新聞〇〇部部長」  と彼女がクダを巻いたために判明(うぐぐ……。社名部署名を明かしたくてたまらないけど本文庫の元単行本のために我慢する)。しかも男は金も払わずに帰ったらしく(あの天下の新聞社社員が……)彼女は支払い要求されつつ、また寝てしまった。ボーイさんは起こそうとして丁重に話しかけるが、彼女はもう足もソファにあげてしまって眠っている。南さんは言った。 「喫茶店で寝てしまったりするとたいてい�お客様、ここはホテルではありません�って注意されるんだけど、ここは本当にホテルだしねえ」  はじめて南さんとホテルに行った話でした。 無言電話  はじめて無言電話を受けた。息をスーハー系のいたずら電話は、これまでにも受けたことがあったけれど、ただ無言、というのははじめてである。  昼の十二時。そのとき私は寝ていた。寝起きの悪さでは業界随一。まだ眠りながらううむ、と不明瞭《ふめいりよう》な声を出した。 「…………」  向こうは黙っている。眠いので切ってまた寝てしまった。一時間後、ベルが腹の上で鳴り、さすがに目を開けた。コードレスホンを腹に載せたまま寝ていたらしい。 「もひもひ」  うすぼんやりと言うと、 「…………」  黙っている。鉛のように重い体を必死で起こす。黙っている。しかたがないので切る。シャワーを浴びた。やっと、なんとか目がさめた。すると、またベルが鳴った。 「…………」  出ると、黙っている。切ると、またベルが鳴り、出ると、黙っている。  さすがに、これが世にいう無言電話であると認識した。 「なるほど」  受け取った気分がスーハー系の電話とはあきらかに異なる。やみくもに電話番号を押してかけるスーハー系とはちがい、無言系は私という特定の人間に対してかけられたものだ。 「となれば、理由は怨恨《えんこん》か、憧憬《どうけい》か?」  後者である美しい確率はゼロに近い。では、怨恨となる。金か人間関係か? 金である確率は私の収入からしてゼロだろう。 「では、人間関係?」  そういえばKANの歌を|お経《ヽヽ》だとティーン誌に書いて�抗議のお手紙�が編集部にがばがば届いたことがある。 「さてはKANがらみか?」  いや、ちがう。中・高校生は怒りの電話を無言ではすまさないだろう。 「ではでは、もしかして、もしかして、恋愛がらみなの? きゃー、ワクワク」  うれしくなった。なんか知らないけどなんか華やかではないか。まるで恋多き悪女になったようではないか。砂漠のようにうらさびしい私生活に花が咲いたようだ。そこへベル。 「もしもし」  どきどきしながら出ると、 「…………」  黙った末に、向こうは言った。低い声で。女だった。 「ミチアキを出してよ」  ? ミチアキ? ミチアキって誰でしょう? 「あのう……」  私が丁重に電話番号を確かめると、彼女は末尾違いの番号を答えた。プッシュするとき指がいかにも間違えそうな番号を。つまり、間違えたままリダイアル機能で無言電話しつづけていた馬鹿野郎だったわけである。っんとに人騒がせ。  恋多き美人の気分になれたのはほんのつかのまであった——。 名 刺  はじめて名刺を作ったのは大学を卒業したときである。そのさい困ったのは「肩書」である。最近でこそ週刊誌などにエッセイを書いているが、当時は小説しか書いていなかった。  在学中にほそぼそした小説誌の公募でほそぼそとデビューし、それはもうほそぼそと書いていて、そのまま卒業したのだから「ほそぼそ作家」が正確な肩書ではある。 「そうだ。カメラマンの人の名刺に時々ある『写真 某山某郎』にならって『文章 某山某子』がわかりやすいのでは」  そう思い、「売文」にしていたが、喧嘩《けんか》を売っているようだと不評の嵐《あらし》で、すぐに名前と連絡先だけの名刺になった。だがこれには問題があった。  ある日、知らない人から手紙が来ている。しかも消印も切手も貼《は》っていない。直接、自宅の郵便受けに入れたものである。手紙には「わたしは屋根裏の散歩者としてあなたを見つめている」と書いてある。電話もかかってくる。  読者かといえば読者でもない。「小説を書いているような人に興味がある」というだけの人である。私の住所と電話番号は、あるパーティで私の名刺を入手した人からもらったという。  つまり、直接渡した相手には何の悪気がなくても、一人暮らしの女の自宅住所、電話番号が明記された紙があちらこちらに流れてゆく可能性がある物、それが名刺なのである。属している会社がある人は、名刺と自宅とのあいだにワンクッション置ける。  しかし事務所を持たぬ自由業者の場合、吹きっさらしなのである。それこそが自由業者の「胡散《うさん》臭い」、あるいは「自由」たる所以《ゆえん》なのだろうが。自由業とはなるほど名前とは反対に不自由業である。  そこで名前のみ印刷された名刺を作った。 「これじゃ、ちょっとさびしいわね」  知り合いの印刷屋さんが好意で猟犬の小さなイラストを飾りに入れてくれた。 「ほら、名刺を渡されたのに、名刺はありませんって言うと間が悪いでしょ。これを渡しておけばいいわよ」  ほんの形式ていどのもの、というわけである。たくさん作ってくださったので長年これを使っていたが、姫野カオルコという字面と猟犬のイラストの入った名刺を見ると、多くの人は、イラストレーターだと思うらしく、イラストの注文がきたりする。自分の文章に自分でイラストをつけるのではない。人さまの文章につけるのである。 「私が描いたんでいいんですか?」  と念押ししても先方は注文なさるので、何カットか描いた(しかもカラーページで)。それでも、この名刺のほうがずっと安心感があった。  屋根裏の散歩者から、見つめているとの不気味な電話がかかってくるより、イラストの注文がくるほうがずっとよい。名刺とは、そのとき話している相手の名前がわかればいいくらいのもので、後日、その人にどうしても連絡したいことがおこれば、各人、なんとかするだろう。それでも連絡とれないとしたら、ご縁が薄かったのだと思う。 もう一度スウェーデンに㈰  はじめて日本人と話すのでたいへん緊張している、とマイケン(47歳)は言った。彼女はローランド(58歳)の奥さんである。三年前、御主人のほうと道で知り合ったのをきっかけに私はもう一度スウェーデンに来たのである。そして夫妻の住むスウェーデン公営団地に泊めてもらうことになった。  団地に到着するなり、荷物をとく間も風呂《ふろ》に入る間もなく始まったことがある。なにか。ディスカッションである。 「世界史におけるユダヤ人の位置を、日本人はどのように思うか? 宗教観を中心にして聞かせて下さい」  これが議題であった。 「どっひゃー!」  私は心中で叫んだ。この「どっひゃー」は二つの意味がある。その一、議題そのもの。その二、こんな議題についてどうやって英語でしゃべるか。私は「イングリッシュ ハ リトルビット」なフツーの日本人なのである。先ページのオランダ、スキッポル空港で乗換え口を探すのにさえオタオタしてアーランダ空港に着いた、ちっともさっそうとしていない、近眼の、カメラを手に持った、フツーの日本人なのである。  しかし夫妻はヨーロッパの人である。ヨーロッパの人は、電気屋のCMのように、 「二カ国語、三カ国語はあたりまえ」  で、英語に関しては「トーゼン」「常識でしょ」なんである(フランス人とドイツ人を除く)。 「私はそんなに英語がしゃべれないからよく答えられません」  ではすまされない空気がスウェーデン公営団地の居間には充満している。しかたがない、答えたよ。わからないところは英英辞典の方式で易《やさ》しい言いまわしに変え、構文を教えてもらいつつ、『試験に出る英単語』の記憶を総動員して。 「すごいわ」  と、思われるかもしれないが、このような議題のほうが、ぜったい日本人には簡単なはずである。日本の英語教育は論説文的英語の習得を主としているのだから。 「でも、この議題について話せるなんてすごいわ」  と、思われるかもしれないが、私の脳味噌《のうみそ》と教養では歯がたつわけがない。たまたま出発前に『ナインティーズ(橋本治・著)』を読んでいたために、この名著に頼りきって話した。マイケンはOSAMU HASHIMOTOと、しっかりメモ帳にメモしていた。  長く厳しい冬に閉ざされた土地の人々にとって「語る」「考える」ということは最大の娯楽なのだと見た。 「桑原友美になれたらなあ」  と、白夜の深夜に私は切に願うのだった。桑原友美というのは昭和四十年代に『ジャイアント・ロボ』という、ツタンカーメンみたいなロボットを操縦する少年が主人公のTVドラマに出ていた子役タレントである。友美ちゃんの役は主人公のGFで、「三十二カ国語がしゃべれる」という設定だった。ああ、私にはオタクな知識しか……。 もう一度スウェーデンに㈪ (マイライフ・アズ・ア・ドッグ)  はじめて『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を見たときから、すでに数年たってしまったが、あの映画は心に残る映画であった(原作はもっと心に残った)。映像もとても美しく、この映画が撮影された村に行ってみたいなあと前々から思っていた。そこで、私を居候させてくれているマイケン(47歳・女)に言った。 「オレフォッシュ村というところに行ってみたいのだが」  スウェーデンのガイドブックには当然、この秀作についてふれたページがあり、 〈一九五〇年代のスウェーデン。ひとりの少年が、母の病気中、オレフォッシュ村で夏を過ごし、一度は町に戻って母の死に遇い、ふたたび冬の村にやってくる物語〉  というような塩梅《あんばい》で説明されている。 「オレフォッシュ? また酔狂なことを。なんにもない小さな村よ。ガラス工芸の工場があるくらいじゃないかしら」  マイケンが言ったものだから、私の瞼《まぶた》の裏には映画に出てきたガラス工場のシーンがまざまざとよみがえり、 「行きたい。行きたい。とても行きたい。どうやって行くといいか教えて、プリーズ」  と、熱意を示した。マイケンは観光局にオレフォッシュの工場の定休日などを問い合わせてくれた。工場の定休日に行ったりすると、ほんとに何も見るところがない村だからと心配してくれているのだ。 「ちがうの。ガラス工芸品を作っているところが見たいんじゃなくて……」  私は映画についての感動をせつせつと彼女に話した。マイケンはもう一度、観光局に電話をして私の思いをスウェーデン語で伝えているようだった。そのうち、マイケンが大きな声を出した。 「オー、ヨーヨー、ストリンドベルイ、ペールヴァールー、マイシューヴァールー」  なんと言っているのかわからないが、なにか大事なことが判明して、おお、なるほど、と言っているかんじがする。電話を切るとマイケンは私に言った。 「ヒメ、映画が撮影された村はオレフォッシュじゃないのよ。べつの村なのよ」 「べつの村とは?」 「オレフォッシュじゃないの。オーフォッシュよ」  ? 便宜上カタカナで記したものの、これ、スウェーデン語で発音されると、そのちがいがほとんど私には判別できない。オレフォッシュとオーフォッシュと同じ地名に聞こえるのだ。ようするに、 「さらに小さい村で、さらになんにもないところよ」  で、ストックホルムからその村までは東京—神戸くらいの距離だそうだ。当然、電車で行くつもりだった私にマイケンは、 「車で行こう。明日はあなたの誕生日だから私がオーフォッシュまでの旅をバースデー・プレゼントにするわ」  と言う。こうして私は片道六時間かけてオーフォッシュ村に行った。しかも日帰りで。だってほんとに泊まる施設などないカタカタ田舎だったんだもん。 もう一度スウェーデンに㈫ (オーフォッシュ村)  はじめてオーフォッシュ村に行った話のつづき。  二十代のころはバスの女性ドライバーだったマイケンは車の運転が大好き。車の運転をすると体調がよくなるという。ストックホルム—オーフォッシュは、東京—神戸くらいである。こんな長距離を車で行くというのは、私はあまり気がすすまなかったが、走り出してみると気がすすんだ。なんといってもスウェーデンという国、人口は八百九十万人ていどで国土は日本の一・五倍。道路はスキスキのスイスイの、渋滞がないというより、 「ゼアラー ノー ピープル」  に近い。ほんっとに人がいない。森と湖と「大鹿《エルク》に注意」の標識だけと言っても過言ではないほど。 「ヒメ、なにか日本の歌をうたって」  マイケンに言われて『ブルーシャトー』をうたわずにはおれなかった。訳すと、 「なんてロマンチックな歌でしょう」  とマイケンは言い、それを機になぜか、働く女性の意識と権利がどのように変化してきたか、日本とスウェーデンでそれはどのようにちがうかという話になり、また私は『試験に出る英単語』の記憶を総動員である。なにせ私の英語力なので、ところどころ会話につまる。つまるとマイケンが紙にスペルを綴《つづ》ってくれるんだが、そのときVOLVOは手放し運転になっている。 「手放し運転は危ないよ」  マイケンに言い、言ったとき、ふと時速計が目に入る。針は110を指している。 「きゃー、ハンドル持って、ハンドル」  あわてる私に、 「だいじょうぶよ、足でおさえてるから」  落ちついているマイケン。  六時間の道のり、退屈する間などなくオーフォッシュ村に着く。車をおりる。だれもいない……。家がちょこちょこっとあるから、人はいるはずなんだが、だれも視界に入ってこない。そのくせ、さびしいというかんじはしない。マイケンは車内で昼寝をすると言うので、一人でとことこ村を歩きまわる。  映画のなかで少年と少女がボクシングをやった材木工場や、二人がラジオを聞きながら眠ってしまった家や、グラマーなお姉さんベリットが働いていたガラス工場などなど、そのままそっくり存在していて感動する。小物屋さんがあったので、そこの店員さんに映画について質問したところ、 「主役の二人以外、子供たちは全員、この村の子が出たのよ。でもみんな成長しました。主役の男の子ももちろん、今は大人になって、雑誌に音楽についてのエッセイなどを書く人になっている」  と教えてくれた。帰りはまた六時間かけてドライブしたのだが、日没後の空は満天の星。北極圏近辺の夜空といったらあなた、五島プラネタリウムそのもの。手をのばして一個、取って舐《な》められそうなくらいだった。 もう一度スウェーデンに㈬ (ザリガニ)  はじめてザリガニと醗酵《はつこう》ニシンを食べたのはスービバーグという街である。夏祭りの街は目抜き通りにズラーッとテーブルが並んでおり、人々がたのしそうに飲食している。  まずザリガニのテーブルがあった。ザリガニといっても、昔、小学校の裏の川でつかまえたアメリカ・ザリガニ(べつに小学校の裏の川と限定せずともよいのだが)ではなく、スウェーデン・ザリガニとでも訳せばいいか、蝦《えび》のような大きいやつで、八月の一定期間だけ解禁される。 『笑う警官』や『やかまし村の子供たち』にこのザリガニのシーンが出てきて食べたくて食べたくてしかたがなかった。前回の旅行では非解禁中だったので今回は何としても食べなくてはならない。食べた。 「大きいみかけに反して、なんという身の少なさ。ぼたんえびのほうがおいしい」  というのが感想だったが、黙っていた。人々も訊《き》いてこなかった。  さて、さらに歩いて行くといよいよ醗酵ニシンのテーブルである。なぜ「いよいよ」なのかというと、ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキーのように、ドリアン・ふなずし・醗酵ニシンだからだ。前者は世界三大ビール都市、後者は世界三大クセのある匂《にお》いの食物。スウェーデン人でも、 「あれだけは食べられません」  と言う人が多い、そういう食物である。見れば、醗酵ニシンを取り扱う係の人はビニールのかっぽう着に手袋で重装備しているではないか。それもそのはず、まだ遠くにニシン係の姿が見えるだけなのに、風にのって流れてくるその匂いは「生ごみバケツの前にあるくみとり式トイレの中でくさやを焼いている匂い」なのである。心して歩いて行くとニシン係のおじさんが、 �慣れればラブリーな匂いだよ、ヤポンスカ(日本人)のお嬢さん�  と、話しかける。私もなにか返そうとするのだが、鼻をハンカチでおさえているため顔も声もひきつっている。正直言って、気分は、ウッ、だ。しかし、私は納豆の好きな関西人にして、親戚《しんせき》にふなずし屋を持つ、出版界一の食欲の女王を自認している女である。ここで引き下がっては食欲クィーンの異名が廃《すた》れる。ハンカチを取る。食べた。ニシン一匹全部食べたぞ。  すると、たちまちとりかこむスウェーデンの人々。How do you like? の質問の嵐《あらし》! �匂いはちがうがわが国の醗酵ふなと味は似ています。こちらのほうが塩辛いです�  ほほえみながら人々と握手してまわる私にYou are brave の拍手の嵐! ニシンを食べたくらいでこんなに喜んでくれるとは。その上、 �Oh、オーエの国から来た娘さんが醗酵ニシンを全部食べた。次のノーベル賞はきっとあなただ�  と誇大に激励され、ニシンは勿論《もちろん》、ポテト代もザリガニ代もタダにしてもらってしまった。大江健三郎先生、こんなところで無関係の者がどうもお世話になりました。 もう一度スウェーデンに㈭ (帰りのタクシー)  はじめてこんな話をお客さんとした、と運転手さんは言った。  一カ月の旅行から帰国した日のことである。私は彼のタクシーに乗ったのだ。 「どこの国に行ってたの?」  スーツケースから判断したのか、運転手さんが訊《き》いた。おそらくなんとなく訊いたのだろう。 「スウェーデン」 「スウェーデンか」  彼は鸚鵡《おうむ》返しに言ったあと、しばらく黙っていた。私も手に持っていた文庫本を鞄《かばん》にしまったりしていた。帰りの飛行機内や成田エクスプレス内で読んでいたマイ・シューバルの新作小説である。夫と共作で名著『笑う警官』をはじめとするマルティン・ベック・シリーズを世に出したこのスウェーデンの作家は、夫の死後、十年ぶりにカムバックした。 「俺《おれ》さ、スウェーデンの小説で大好きなのがあるんだ」  黙っていた運転手さんが急に言ったのでびっくりしたが、 「『笑う警官』のシリーズが大好きなの。読んだことある?」  と言ったのでもっとびっくりした。 「あれを読んでスウェーデンに行ったようなところもあるものですから」  私が答えると今度は運転手さんのほうがびっくりした。当然、その後の彼と私の会話は、 「グルメのあいつもいいけどさ、なんてったっけ、ほら晩婚だった……」 「コルベリですか」 「そうそう。あいつより俺はあっちのほうがいいんだよ。背の高い暴れん坊の……」 「ああ、船に乗ってた」 「そうそう、ラーソン」 「私はあの人が一番好き」 「ほんと? 俺もそうなんだ。あいつ、もともとはいいとこの坊ちゃんなんだよな」  といったマニアックなものとなった。十巻のうちではどれがよかったとか、わき役の巡査の二人組がおもしろいとか。 「お客さんは独身なのか。なら、いつかラーソンみたいな男をつかまえるといいよ。きっとそのうちそんな男に出会うよ。お客さんみたいなタイプにはラーソンのようなやつがぴったりだ」  マニアックな励ましも受けた。そのうえ料金の端数額をおまけしてもらった。さらにそのうえ、シューバル女史の新作のことを伝えたので、 「わかった。今日、八重洲ブックセンターに買いにゆくよ」  と、運転手さんは言い、 「社員でもないのに角川文庫の売上げに協力してあげたのよ」  と、後日、角川書店の人に恩着せがましくした。スウェーデンから帰ってきた日に乗ったタクシーの運転手さんがマルティン・ベックのファンとは、なんという奇遇であろうか。 もっとイイやり方  はじめて「もっとイイやり方」を教えてくれたのは江波くんである。  小学校低学年のころ、私は毎月の三日になると本町商店街へ出かけていた。本町商店街は町で唯一の「繁華街」である。  今だから言えることだが、泣けてくるほどうらさびれた場所であった。けれども田舎町の小学校低学年の私にとっては唯一の「繁華街」なのだった。  その繁華街へ何をしに行くかというと、少女雑誌「なかよし」を買いに行くのである。同じ雑誌でも「小学〇年生」は教育雑誌なのでちゃんと宅配してもらえる。いわば家公認であり、非公認が少女雑誌だった。  昭和四十年当時「なかよし」「りぼん」は百八十円。「少女フレンド」が六十円で「マーガレット」が七十円だった。  おこづかいが月に二百円なので週刊少女雑誌までは買えない。週刊誌のほうは夏休み、旅行、病気、等のビッグ・イベントのときに限られていた。  そこで毎月のたのしみとしては月刊誌一冊なのだった。もちろん雑誌自体もたのしみなのだが、小銭を握りしめ一人で道すがらいろいろな空想をしたり、繁華街の匂《にお》いを嗅《か》いだり、そういった「お出かけ」がたのしみなのだった。歌舞伎座へ行って三越へ行って、といったような感覚である。  二百円で雑誌を買うと二十円のお釣りがくる。その二十円で本屋の向かいにいつも出ている屋台のたこやきを買う。  屋台の横っちょから商店街を逸れた路地に出られて人通りがない。大きめの石か何かにすわって私はたこやきを味わった。スナック菓子というものがなかったころで、甘い菓子を好まぬ私には、たこやきは「こんなうまいものがあるだろうか」と思われた。  当時はプラスチックの容器ではなく、経木《きようぎ》でできた舟型の容器に盛ってくれた。たこやきのタレが経木にしみこんでしまうので、私は意地汚くも空になった容器の底に舌をのばして舐《な》めていたりした。  小わきにぎゅっと抱えた本屋の紙袋。ハトロン紙のような紙でできた本屋の紙袋。紙袋の中には新しい「なかよし」。白い紐《ひも》で田の字の形にくくられた「なかよし」。いっぱいの付録でぷわんとふくらんだ「なかよし」。  新しい雑誌を買ったよろこびを自分の肌身にひしひしと感じつつ、口の中にひろがるたこやきの味。至福のひととき、とはまさにあれであった。  ところが。  たまに「お正月特大号」とか「クリスマス・デラックス号」とかが出現する。すると定価が百九十円になる。すると後のスケジュールがすべて狂うのである。  たこやきは二十円で舟型容器に四個。これが最小の売り単位なのだ。三十円で六個、四十円で八個……。定価をnとすると個数は2nなのである。  百九十円の特別号のときはたこやきをあきらめて家に帰り、十円を貯金する。と、翌月は六個のたこやきを食べることができる。それもオツなもんだったが、やはり「なかよし」を買ってたこやき、これはセットにして「お出かけ」の体をなしていたわけだから、あるとき、私は思いきってたこやき屋のおじさんに交渉した。 「十円しか持ってへんのやけど」  おじさんは無口で無愛想で苦虫をかみつぶしたような顔の人だったので交渉を切りだすのはとても勇気がいった。だが、 「ああ」  と、ぶっきらぼうに言うと、ちゃんと十円を受け取り、たこやきを舟型の容器に三個盛ってくれたのである。舟型の真ん中に四個がすわりよく収まっているのを見慣れていたため、三個のたこやきはどことなくさびしそうであったものの、私はうれしくてならなかった。一個少ないぶんの腹の物足りなさも、それはそれでフレッシュな味わいとなった。  三年生になると、おこづかいの額も多少アップしたが、買う雑誌も変化して、いつのまにか、たこやきとセットのお出かけをしなくなり、月日は流れた。  高校生のとき、江波くんという理系の得意な同級生と雑談していて、 「十円だと三個だけくれた、あのたこやき屋のおじさんのやさしさが……」  と、おセンチな瞳《ひとみ》になって私は言った。江波くんはすかさず返した。 「それやったら、二十円持ってるときに、一回ずつ買《こ》うたら得やったのに」  あ、そうか。ぜんぜん気《きい》つかへんかった。 安田成美  はじめて、安田成美が丸大豆|醤油《しようゆ》とかいうのを買ってきて家庭料理の並ぶテーブルの前で上目づかいに「なんか(顔に)ついてる?」と無垢な(むく無垢を装った)表情で尋ね、「へんなの……」とクスッとはにかむCM、を見たとき、私は全身に鳥肌がたち胃液が逆流してくるのを感じた。  すると胃薬のCMにも安田成美が現れ「もう、太ってやる〜」と、可愛《かわい》らしく肉マンをほおばっているではないか。  わなわな、という音が聞こえそうなくらいに私は震えた。なんという不快なCMだろう。 「なんかついてる?」と尋ねる顔がすでに「よく知っている」顔なのである。家庭料理を差し出された男が「あ、かわいい。抱きしめたい」と思ったことを知りぬいた、知りぬきぬきぬききった顔なのである。  そしてそういう男に「へんなの、クスッ」と笑う笑い方が「こんなふうに無邪気に笑えば、男はつかまえられそうでいてつかまえられないあやうさを感じてよけいにグッとくる」ということを知りぬきぬきぬきぬきぬききった笑い方なのである。知りぬいていながら本人は自覚していない不潔さがたまらなくいやだった。  天性の媚《こび》に対する嫌悪感、いや、媚びないでいようと一分たりとも発想しないあつかましさに対する嫌悪感を、私は安田成美のCMに感じた。 「太ってやる〜」のほうででも、肉マンのほおばり方が「私ってこんなドジなこともしちゃうの。こんなドジなところがあるのが男の人には可愛く映るのよね」ということを知りぬいたほおばり方であり、最近の「薔薇《ばら》っていう字が書ける」バージョンででも「薔薇っていう字が書けるくらいのことを自慢しちゃったりするお茶目さ」を知りぬいている。知りぬきながら、これまた本人は無自覚である(本人、といってもCMの中ででのヒロインという意味であって人間・安田成美に対してのことではない)。  こんなふうな女は男にとって、まことに都合がいい。やっていることの本質は、全裸にエプロンをつけてクネクネと踊って男を挑発しているのとまったく同じことだからである。能力のないダメな男でも相手にできる都合のよい女が、あの一連のCMの中にはいるのだ。そういう都合のよい女でいろよな、と言葉巧みに女性を悪の道にひきずりこもうとする、ほとんどセクハラCMである。  ヌードポスターに文句を言う前にどうして安田成美のCMシリーズが女性団体の非難を受けないのかふしぎだ。 「こんなに残して。男だろ」と、あんな小さくてファンシーなシューマイをぱくついてみせたところでアザトイばかりである。  もしあれが、北京ダックの丸焼きにかぶりつき、シメサバの一匹でも手づかみでむしゃむしゃ平らげ、丸大豆醤油を瓶ごとラッパ飲みするのだったら、まあ、少しはほほえましいCMに思ったかもしれない。 「薔薇っていう字書けるんだよ」などと、一生書いてろ、と言いたくなる。 U V  はじめてUVという用語を知ったのは、たしか一九八四年あたりである。 「紫外線はお肌の大敵。UVファンデーションで防ぎましょう」  といったような化粧品が多く新発売されたからだ。ひらたく言ってしまえば、日焼けしないようにする成分が入ったものをUVファンデとかUVローションとかと、女の子世界では言っている。  UVのほかにSPFやPAというのもある。どれも「日焼け止め用語」ではある。 「だが、UVとかSPFって何の略? 十年以上たった現在でも知らないよ」  たぶん女の子はみな一度は首をかしげ、かしげたまま、どこかで説明を聞いて、そしてすぐ忘れるんだろうと思う。そこで私は今、資生堂に電話して訊《き》きました。 「UV=ULTLA VIOLET RAY(紫外線)で、SPF=SUN PROTECT FACTORで、紫外線のうちB波を防ぐ効果を数字で示します。PA=PROTECTION GRADE OF uv Aで、紫外線A波を防ぐ効果を+〜+++の段階で示します」  のだそうである。たいへん親切でした。こうした製品が出たときに、私はそれはもう喜んだ。丈夫がとりえの私であるが、唯一の弱点は粘膜と皮膚。 「肌が薄い。肌が弱い」  というセリフは一見、うるわしげかもしれないが、こんなにかっこわるいものはない。長時間、日光に当たると顔や首に赤い湿疹《しつしん》ができ、かゆくなって、ひどいときはなんか気味の悪い汁が出てくる。  体育の時間も、みんなが半袖《はんそで》と短パンでさっそうとハードルをまたいでいるときに、ずるずると長袖とトレパンでもたもたしていなければならなかった野暮ったい過去……。 「UV化粧品! これがあれば私もアウトドア・ライフをいきいきとたのしめるわ」  そう思ったのだが、こういう肌質の者はUV成分にも弱いのである。塗っていると顔がむずむずとしてき、そのうちカッカッと熱くなって、やがてブツブツとなにかができてくる。私のような人が他にも大勢いたのか、近年には、 「そういう人にも大丈夫ですよ」  という、うたい文句の「肌にやさしいUV化粧品」が発売され、 「これなら」  と試したがやはりダメで、ちょっと使用しただけで人にあげてしまった。いったい今までどれだけのUVローションやクリームを新品同様のままふいにしてきたかしれない。不感症の女は、 「この男ならいけるかも!」  と祈りをこめて、次から次へとセックスするという、なんだかそんな気分である。  年中、長袖を着て傘をさし、化粧もせずに、なるべく夜に行動するようにしている不感症のドラキュラのような生活にさよならさせてくれる製品が発売されるのはいつの日であろうか。 冷房機  はじめて冷房機を使ったのは昭和四十五年ごろである。当時は水を使って冷やしていた。冷風扇とはちがう。どういうしくみになっていたのかよくわからないが、とにかく使用中はずっとポンプの音が聞こえた。その音がいかにも「水を使ってますよ。贅沢《ぜいたく》ですよ」とひっきりなしにたたみかけてこられているようで落ちつかず、ごくたまにしか冷房しなかった。ごくたまにしか使用しないまま、いつのまにかそのばかでかい冷房機は、わが家の応接間のたんなる棚と化していった。田舎なので家が密集しておらず、べつに冷房機など必要なかった。上京後もずっとエアコンのない部屋に住んでいる。 「ええっ、エアコンがないんですか!」  ぐだぐだうだるような暑い日に、編集者に言われたりするが、 「私はエアコン反対派なのです」  と言っている。資源の無駄遣いだと。  都市の夏は寒すぎる! 本当は暑いのにひとたび室内に入れば、冷房のために全身チキン・スキンになってしまうではないか。  私は平均体温が三十四度くらいしかない。六、七、八月以外はすべて寝るときは湯たんぽを使用している。冬場は二個使用するし、冬場の外出の際はズボンを三枚、ソックスを二枚はいて靴の中に靴用ホカロンを入れていることが、よくある。年間を通して、たいていの場合、 「寒い。冷たい」  と思っているのだ。しかし、それを口に出すと、 「うそー、太ってるんだから寒さには強いはずだ」  と、言われることが多いのでじっと我慢し、寒くて冷たくてこごえそうで手足をお湯につけたいのを耐え忍んでいる。  その私が、 「ああ、やっと私もおしゃれに薄着ができるわ。バックベアのワンピースを着て外出できるわ」  と、まるで、魔法使いに救われたシンデレラのような気分になれるのが唯一、暑い日だというのに、いそいそと出かけていくと電車のなかが、もう寒い。喫茶店がもっと寒い。映画館なんか、まだスウェーデンにいるのかと錯覚する。  おかげで、夏になると、小さな毛布や綿入りの半纒《はんてん》やウールのカーディガンをつねに携帯せねばならず、とんでもない大荷物になってしまう。  せっかくバックベアのワンピースにジバンシイのストッキングをガーター・ベルトで吊《つ》ってシャネルの口紅をつけて玄関を出ても、手元は宅八郎なのだ(紙袋)。  冷房はものすごくエネルギーを食う。いくらなんでも、都市は冷房のしすぎではないだろうか? 私の場合はとくべつ冷え性だとしても、寒がっている人はきっと多いと思う。こんな無駄なことはない。エネルギーの浪費だ。  冷房は、病院とか調理場とか研究所とかそうした、絶対に必要な場所にかぎることにして、ほかの場所では廃止すべきである。そして、いっそ夏はどこの会社も二カ月休んで、みんな田舎のほうへ避暑に出かけることにしたら、地方経済も活性化すると思うのに、まあ、理想と現実には隔たりがあるので、少なくともビアホールや映画館といった娯楽施設では、やめてはどうだろうか。そうすればエネルギーの節約になるし、暑くてビールも売れるし、女の子はもっと肌を露出した服装をしてくれる。このへんは一考してほしい。 劇に出た  はじめて劇に出たのは四歳。保育園の卒業式イベントの劇である。  重々しい建築のキリスト教の保育園だった。出し物は当然、聖夜ものである。マリアさまが聖母受胎し、貧しい馬小屋にてイエスさまがお生まれになる聖書のものがたり。  背の高い私は男装して、東方の三賢人のひとりをすることになった。夜空の星を指さし、 「行かん、エルサレムへ。メシアがお生まれになる」  という、四歳では理解不可能なことを言う……予定であった。だが、背は高いが声が小さい。人前でなど声が出ないに等しい。そこですぐに先生は別の子にセリフを言わせることにした。私は他の賢人の横で、ただつっ立っているだけである。しかもイエスさまがお生まれになるころのものがたりであるから、男装といっても衣装は風呂敷《ふろしき》オンリーである。 「地味な色のお風呂敷を用意してください」  先生が父兄に言ったのであろう。湯飲み茶碗《ぢやわん》のヘリにしみついた茶シブのような色の風呂敷を、普段の服の上にぐるりと巻いて、それでおわりである。髪に金の星の飾りをつけ、白いレースを巻いてもらって踊る樅《もみ》の木の精役の女の子がとてもうらやましかった。  ♪も〜みの木、も〜みの木♪  と、字で書いてもわからんだろうが、有名なクリスマス・キャロルに日本語の歌詞をつけた歌をうたいながら踊るのである。茶シブの風呂敷を巻かれた私は舞台の裏から、彼女たちをうっとりとながめていた。  保育園を出てからも宣教師の家に預けられていたせいもあり、今でも十二月二十四日になると厳粛な心地になる。そして、樅の木の精の踊りに目をほそめたときのような、なにかキラキラするものを夢見るような気分もわく。  いつのまにクリスマスはカップルがホテルでセックスする日になったのだろうか。なげかわしいことだ。むしろその日くらい禁欲したらどうか。 ワープロ  はじめてワープロを使ったのは十年以上前である。  子供のころに硬筆習字をしていた者の特徴として、私の字はきれいというより正確な字であった。書くスピードもはやかった。また、優等小学生であった者の特徴として、漢字の書き取りも得意だったので「薔薇《ばら》」「醤油《しようゆ》」くらいの字は難しいの域に入らず、「憂鬱《ゆううつ》」「蝋燭《ろうそく》」「緊縛」「蒟蒻《こんにやく》」などもスラスラ書けた。だからなにもワープロを使う必要に迫られてはいなかったのだが、目新しい機械に触れてみたくて買ってしまったのだった。  最初にF社の製品を買った。親指シフトという独自のキー配列をしたものである。そのため、以降、F社の製品を買いつづけるハメになっている。  何台も買い換えて気づいたことは、ワープロにも頭のいい子と悪い子がいるということだ。これは、現機種のほうが前機種より性能がいい、という意味ではない。  同じ機種でも、かしこい子とバカな子がいるという意味である。そして、現在、私の使っているのは、かなりバカな子である。かしこい子は、たとえば「せいさい」と打ってそれが「精彩」であることの頻度が高ければ、すぐに迷わなくなり反応がどんどん速くなっていく。  それが私のこの子は、私が何度も「精彩」を選んでいるにもかかわらず「せいさい」と打つたび「精細」「制裁」「正妻」と、いちいち迷ってくれる。これくらいならご愛嬌《あいきよう》だが長編小説の場合、文章を推敲《すいこう》するため、一文書を何度も更新することになる。そうするうち、まるで「ええん、もう更新するの疲れたよお」とでも言っているかに、画面中の「横」という文字が「ケ」に変わってしまうのである。「横浜」なら「ケ浜」、「道路を横切り」なら「道路をケ切り」、「縦横無尽」なら「縦ケ無尽」となってしまう。なんでまた「横」が「ケ」になるのかわからない。  しかたなく「漢字辞書」という機能で「よこ」を引くと、それまで「ケ」と出てくる。修理に出すと、一カ月ちかくも持っていったまま、結果は「ご指摘されるようなことはありません」と言われた。長編を作成し文章を推敲する、という作業を行わないかぎり出ない故障らしい。  想像していただきたい。神経をすり減らしながら物を考えているときに、画面には「ケ、ケケ、ケ、ケケ」と「ケ」が散らばっているのである。いいかげん腹がたつ。 「もう、あんたってほんとバカな子ねっ!」とワープロに向かって怒鳴ってしまう。すると、まるでそれを聞いたかのように最近では「優」という字も「ケ」に変わるようになり、ますます画面には「ケケケ」が散るではないか。  そのうえ、ワープロを使っているうち私は字がヘタになり、漢字も全然書けなくなり、すっかりバカになってしまった。犬は飼い主に似るというがワープロも持ち主に似ていくのだろうか。さらに進んで、持ち主がワープロに似て、いつも「ケケケ」と笑っているなら、それはそれでステキな生活であろう。 文庫版あとがき  私がはじめて体験したり聞いたりしたことや、私にかぎらず、一般に人がはじめて体験したり聞いたりすること、そんなふうなことについて綴《つづ》ったものが、この『初体験物語』です。一九九二年から雑誌「ダカーポ」で連載がスタートし、四年半続きました。四年半目にして病気になり、治るのに長くかかりそうだったので終了させていただきました。一冊にまとめるにあたり、その編纂《へんさん》とセレクト、構成は、大槻慎二さんにおまかせしました。大槻さんは、以前、『喪失記』という、私の出した小説のなかでは一番売れた作品を担当してくださった編集者です。「息苦しいくらい重い」と、よく人から言われる(よい意味でも悪い意味でも)『喪失記』にくらべ、この『初体験物語』は、 「今回は、息がらくにできるようなたのしい一冊、にしよう」  と、大槻さんは考え、構成してくださったのだと思います。「ダカーポ」連載原稿のほか、他誌に発表されたもの、未発表のもの、改稿したものも加わりました。そして、より多くの人が入手しやすい文庫本の形にしてくださったのは宍戸健司さんです。おふたりには本当におせわになりました。  そして、この本を買ってくださったみなさんに、厚く御礼申し上げます。なぜなら次に本を出すためには、前の本が赤字では不可能だからです。借りずに買ってくださって本当にありがとうございました。本当に本当にありがとうございました。 一九九八・十一月 姫野カオルコ 角川文庫『初体験物語』平成10年11月25日初版刊行